都内の私大で社会学を専攻する文系院生が就社社会に参入するまでの記録

都内の大学院で社会学を専攻している文系院生が、修論を書きつつ就社社会にいかに参入していくのかを自身で観察するブログです。

ジェンダー史学会シンポジウム「優生学とジェンダー」その他

12月13日にジェンダー史学会の年次大会にて、シンポジウム「優生学ジェンダー −不妊手術(断種)を中心に−」が開催されます(すでに参加受付は終了しています)。

同シンポジウムは、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制されたとして国を訴えた裁判(旧優生保護法国賠訴訟)と、その判決が続くなかでの開催となります。直近の判決は前週の月曜日(11月30日)に大阪地方裁判所より出されました。判決要旨としては以下のようになります。

  1. 優生保護法が、憲法13条に違反していたと認定。
    →旧優生保護法が、性と生殖における個人の自由と、その意思決定をする自由、また当人の意思に反して身体への侵襲を受けない自由を侵してたと判断

  2. 優生保護法が、憲法14条に違反していたと認定。
    →旧優生保護法が、合理的理由なく障害者を差別し、法の下の平等を侵害していたと判断。これまでの東京地裁仙台地裁では、旧優生保護法が障害者を差別していたとする判断をしていなかった(むしろ、判断がなされていなかった方が驚き)。

  3. 国の立法不作為については、国家賠償法上の違法性が認められない。
    →また民法上の除斥期間20年を適用し、国の賠償責任は認められないと判断。

優生学はさまざまな領域にかかわるものであり、雑に論じることはむしろ優生学の「死への権力」―より正確に言えば規律化された「生を死へと投げ捨てる(廃棄する)権力」の作動に組するものだと私は思っています。

その一方で、この問題の途方もない大きさや広さ、深さに対して「どうせ自分には分からない」「どうせ私には関係ない」と思うこと、さらには「どうせ〇〇だし」(〇〇には社会的弱者とされるさまざまなカテゴリーが入る)と言及することも、また優生学の作動に組するものだと思われます。特に『アシュリー事件』の著者、児玉真美さんが「「どうせ」が共有されていくすべり坂」(児玉 2011:157)と表現するように、個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識の集合は、いつの間にか社会意識として醸成されていく可能性を伴います。

確かに私としても優生学について学ぶことの難しさは、学部での講義を受けて以来感じています、ですが、今でも命の選別や、条件付きの生存権に関する話を尽きないなか「どうせ」の共有に私は懸念をしています。難しいことではありますが、あきらめずに向き合っていきたいと思う次第です。

最後に、「個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識」―特に自己を卑下するような意識について少しだけ書きます。
先の記事でも書きましたが、ヤングは後期近代が微細な差異の境界を画定するとめどない実践を特徴としていると指摘しています(Young 2007=2008)。であるならば、私もこの社会からいつ追い出されるか―逆に言えばいつまでこちら側にとどまっていられるかは明らかではありません。自己存在への不安でいっぱいです。

では、そのような状況にいる個人はどのような実践をとるのでしょうか。
いくつか考えられると思いますが、そのひとつに高度な「自己のモニタリング」「自己管理」が挙げられると思います。社会学者のバウマンとメイは次のように言います(少し長いですがそのまま引用します)。

わたしたちは「適正」と見なされる状態に自分の身体をもっていくために、最善を尽くさなければならない。
この過程は、わたしたちがいかなる社会で生活しているか、自分の身体をしっくりいっているかどうかに左右される。わたしたちは自分の身体の管理を一つの課業タスクととらえる。それは、日々の配慮や注意を要する仕事である。身体の管理が自分の課業となると、望ましい体型の基準や、それに近づくためにしなければならない活動の基準が社会的に設けられる。そのような基準に従うことができなことは、「恥ずかしい」という思いをもたらし、そのような要求を満たすことができない人々は、日常的に「差別されている」という感情をもつ。(Bauman and May 2001=2016:214-5)


ここで重要なことは次の点にまとめられます。

  1.  適正とされる身体の基準に自身が合致することよりも、基準に近づくための自己管理と自己への配慮が要求されること
  2.  そのような社会的要求に応えられないことが「恥ずかしい」「差別」と認識されること
  3. (もう少し正確に言えば)自己管理ができていない自己が、自分自身のことを恥ずかしい存在だと捉えられてしまうこと

つまりは、身体や体型が例えば痩せているか、太っているかというよりも、ある身体に関する基準—ここでは「~べき」という規範に近いものだと思います―への接近に「努める」ことが良きものとされているのです。ここでの、身体への基準とはおそらく「痩せている」「色白」「艶のある髪」などが一般に挙げられると思います。

もう少しだけ話をすると、このようにある価値規準への行為の(ある種の)水路づけの作用をフーコーは「生‐権力」という概念を用いて説明します。例えば、それはギャンブル依存症患者はパチンコを「する」、「しない」ではなく「してはならない」の選択を迫られるような事態を指します。ここでの話に合わせるならば、「痩せる」「太る」というよりも「太ってはならない」という選択を「肥満症や生活習慣病の患者、その予備軍、そして現時点で健康だとされる人間に対して迫ってくる事態です*1*2

さて、自己管理ができないことは恥ずかしく、自己管理ができない自分は差別の対象であると感じてしまう事態は、社会における本人の存在位置に著しい影響を及ぼすものです。端的に言えば自分が排除の対象になりかねない状況です。排除の対象に自身がならないようにするために、身体に関する「自己管理」はより必要性を増してくるように思われます。なぜならば、自己管理をして適正な身体基準に近づくための努力をしている自己は恥ずかしくなく、差別されない存在だからです。

ただし、このことには直ちに「一応」と留保する必要はあります。それはなぜでしょうか。そもそも、適正な身体基準とは何でしょうか。自己管理のゴールはどこにあるのでしょうか。それっぽいものは思いついても、「これだ」と確実な正解で示せるものはなかなか見つからないのではないでしょうか。

ここで問題となるのは、自己の身体を管理することをタスクとして要求されつつも、その一方でタスクの終わりとなる基準が一向に示されない(分からない)という際限のなさです。しかもこの際限のない自己管理の動機の一部には、自分は恥ずかしい存在かもしれない、差別されて排除されるかもしれないという不安が含まれています。後期近代において、こちらとあちらを分ける境界は微細な差異によって曖昧化しています。「これが(自己管理の)ゴール=自分は恥ずかしくない存在だと思える基準だ」と思っていても、それは移ろいやすい差異の世界ではなかなか確証が得づらいものです。であるならば、自己管理を終えることも、休むことも難しくなります。むしろ、自己管理はどんどん加速していく可能性すらあります。

上野は相模原障害者殺傷事件の特集記事で「高齢者の自己差別」について次のように述べています。

差別のなかでもっとも深刻な差別は、自己差別ではないだろうか。他の誰かに差別される以前に、自分が自分を差別する。それが自尊感情を損ない、人を無力化し、貶める。(上野 2016)

ここでは、自身の「老い」ることが「社会のお荷物」という差別される存在になることと結びつき、それを全力で自己否定する様子を指摘しています。そして、相模原障害者殺傷事件の場合には、加害者のなかにあった「障害者性」と「社会のお荷物」の結びつきをを苛烈に否定するした結果が、他者=障害者への殺傷に向かったのではないかと論じている。
ただし、上野の議論では「老い」と「障害者性」がそのまま置き換えれてよいのかという疑問は残りますし、また先に挙げた「健康」を上野の指摘する「老い」と置き換えることも慎重にならないといけません。
しかし、少なくとも自己差別―自分は恥ずかしい存在かもしれない、差別をされる存在かもしれないという気持ちを常に内面化する状況は、自己管理を越えて自己への過剰な介入=自己検閲になること、そして結果的に自己と他者への排除に結び付くのではないかと筆者は考えています。

「個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識」について私見を書いてきましたが、このような意識に対して単に「自己肯定感を高めよう」というエールを送ることはむしろ本人の抱える不安を煽り、置かれる状況をさらに過酷なものにしかねません。そうではなく。自己管理を強いられる社会、自己管理を社会的自立の一形態として過度に称揚する社会のあり方に目を配っていくことが、筆者は大切かと思っています。

 

 

参考になりそうなもの(教育に関わるものを中心に)

〇岩下誠,2016,「イギリスの教育思想」眞壁宏幹編『西洋教育思想史』慶応大学出版会.
→特に4節「新教育運動の教育思想」にある「優生学教育心理学と新教育」「メリトクラシーと新教育」は面白い内容です。岩下さんも編著者である、『問いからはじまる教育史』(<有斐閣ストゥディア>有斐閣,2020)は今年出たばかりの教育史に関する最新の参考書です。

*1:ここでは身体に関する話ですが、例えばマインド(心の在り方)に関する議論もあります。詳しくはローズ(1989[1999,2006]=2016)や、堀之内(2016)を参照してください。

*2:身体への規範的なまなざしや介入については、特に「数字」「統計」と関連させて議論されることが多々あります。
例えば、石井は優生学研究の第一人者で日本民族衛生学会初代会長を務めた永井潜のテクスト分析を通して、永井が「生殖」概念をいかに語り、いかに記述していったかについて考察している(石井 2009a, 2009b)。そこでは、永井が「生殖」概念を恣意的に誰かを抑圧していくものとして運用していったのではなく、家計・偉人調査などの「あくまでも」科学的・客観的な新しい基準(知識)を駆使しながら結果的に個人の可能性をまさに方向づけていくものとして運用していったことが指摘されている。
他にも、磯野は人間の食べるという行為に数字(カロリーや塩分量など)が介在してくることで、食と食に関わる具体的な意味や文脈を有する世界からの切り離しがなされると指摘しています(磯野 2019)。そのことを「脱文脈化」とか数字が世界の彩を消すなどと磯野は表現しています。
石井と磯野の指摘に共通することは、客観的で価値中立的だとされる数字の存在です。磯野は数字には管理者の世界観が入り込むと指摘しています。石井は永井―磯野が言うところの管理者に当たる人間―が他者に対する抑圧の意図の有無にかかわらず、数字の利用によって人間の存在の仕方の可能性を方向づけたと指摘しています。両者の指摘の主眼は管理者の悪意の有無ではありません。人間や、人間の行為を数字で捉えることが可能になったなかで、いかにして数字が人間の内面に介入してくるかということに主眼が置かれているように思われます。言い換えれば人間の均一化や同質化を、人間自身が内面化してしまうような数字のネガティブな作用の「仕方」のことでもあります。

疑似科学/科学リテラシーと教育―「心」に焦点化する教育

秋頃に、「心」に焦点化する教育政策というテーマでゼミ報告する機会がありました。戦前の修身から戦後の道徳*1への連なりの中で、教育が子どもや大人(教員)の態度や関心といった心の在り方に介入しようとする試みがどのような意味をもつのか考察しました。


ここでは、報告作成時に参考にした文献やホームページが現場や日常生活でも役立ちそうなものだったので、ご紹介したいと思います。

 


以下では、そのときの報告内容について少しだけ書きます。

東京都は「「こころの東京革命」の推進」事業を10年間ほどおこなっていました。事業の概要については東京都の報道発表と、東京都財務局の事業評価表で確認してください*2

事業の理由と目的には次のように書かれています。

家庭や地域の教育力が低下したこと等に伴い、子供の規範意識や倫理観に欠ける問題行動等が深刻であった(東京都財務局 2018)

この手の政策でしばしば見るような、お馴染みの文章です。こうした青少年向けの教育政策ですが、その流れとしては

  1. 大人が理解できない子どもの出現
    →凶悪な非行少年、最新テクノロジーを駆使する子ども、増えたと見なされる障害児や体の弱い児童など

  2. 家庭や地域の教育力の低下
    →教育力がいわゆる「しつけ」に相当する

が雑な因果関係で結び付けられ始まることが往々にしてあります*3

そのなかで子ども個人は理解不能な存在に、子どもを教育する親や家族は教育力不足として、それぞれが改善の必要がある存在として見なされていきます。そして、それぞれに対して教育的介入―もちろん福祉の領域でも就労や自立といった用語で介入はあります―がなされていきます。

前者への介入の一つとして、今回筆者がゼミで報告した「心」の教育などが挙げられます*4。心の教育は、問題の帰責を当人のマインドに求める「心理主義化」とも関連しますし、個人の考え方や在り方の水平的な画一化(本田 2020)を助長するものでもあります*5。いずれにしても、理解不能な存在を理解可能な存在へと子ども個人を変えていくような教育政策の存在報告では指摘しました。

さらに以下では、ある他者を理解不能な存在として、介入対象とすることについてもう少しだけ話します。
例えば、本田は「水平的画一性」はある一定の層(大抵はマイノリティ)を排除すると指摘し、個人の在り方をa,b,c といった「水平的多様化」を創造していく必要があると述べています(本田 2020)。それは「個々人が、様々な独特なあり方で生きられる(本田 2020:235)ことの実現を意味します。

ですが、本田の議論ではマイノリティも含む個人の在り方がa,b,c と並ぶときに誰も排除されないのか、という点について論じられていません。つまりは、多様な個人の在り方が存在するとされる社会についての構想がここでは論じきられていないように思います。

筆者がゼミで報告した内容は、本田が指摘するような「水平的画一性」を実現するための教育政策のひとつです。それは理解不能な他者を理解可能な存在にするための方途です。a,b,cと並ぶ存在を、a,a,aとするような発想です。本田はこのa,a,a を問題であると指摘しているわけですが、では多様性が確保されたとするa,b,c の状況でaはbを(そんなにすんなりと)理解しすることができるのでしょうか。さらに言えば、aとbの共生はどのようにして実現できるのでしょうか*6

ここで犯罪学者のヤングの議論を引用してみたいと思います。
後期近代*7では「大人が理解できない子ども」が、全くの理解不能な存在者―異質者alienとして認識されるのではありません。むしろ理解可能性を前提にした理解できない存在として認識されます。言いかえれば、「不足つまりある特定の価値観に立脚したところからみて不利であることを強調する」(Young 2007=2008:20) ような他者理解です。

「ある特定の価値観に立脚」してとあるように、ヤングが指摘するような他者理解は、明確な境界線を画定してこちらとあちらに分断するような形で行われるわけではありません。他者を異物としてあからさまに排除するわけでもありません。むしろ、あちらとこちらを分ける分断線が文脈に応じて何回も引き直される点に特徴があります。引かれる線は大きな差異としてではなく、微細な―しかし幾重にも複雑に引かれる差異なのです。

後期近代では経済的な(再)分配が機能不全な状況ですし、また自己の存在を規定する文化的な承認も不確実な状況です*8。両者ともに、内実は混沌としています。ですから、いつ誰があちら側に立つかについての予測は立ちづらい状況です。そのなかで、立ち現れる微細な差異は、エスニシティジェンダー、階級といった多元的なものであり、また「雑種混交」なものであり、断片的で集合的で、強くもあり弱くもあり、固定的で移ろいやすくもあり、充足的で剥奪的なものでもあります*9。そのような特徴を備える差異は、あるときは<私>を包摂し、ある時には<私>を排除するような「移ろい」を社会にもたらします。

この点において、包摂と排除は一方向に単線的に発生するのではなく、複線的で同時多発的に起きているのです。言いかえれば、遠心力と求心力を、または吸収と排斥を同時に行う社会であるということです(Young 2007=2008)。

さて、筆者のゼミ報告やここでの記述内容は、教育の現場で対峙する他者(子ども)の理解の可能性や仕方のあり方を念頭に置いたものです。それは、ある個人を理解不能な存在として同定し、対象者の心を把握することで理解可能な存在として位置づけようとする試みです。つまりは、個人の存在を理解可能な範疇で掌握しようとするものでもあります。しかし、そのような試みには画一性に適うか否かで、ある一定の層を排除する可能性をもあります。

他方で、画一性を打破して個々人の差異を認める多様性を実現すれば、全てが解決するかというと必ずしもそうではありません。ヤングも指摘しているように、差異はA とB を区分するほど明確なものではありません。自己と他者の境界線はとても曖昧で、移ろいやすいことが後期近代の特徴です。したがって、必ずしもa,b,c の併存をもって排除の可能性—もちろん同時に包摂の可能性もあります―をゼロにすることはできません

では、どうするか。この点を考えなければなりません。いろいろな方途が考えられると思います。ヤングは「真の文化的多様性」Young 2007=2008:275)の可能性を挙げます。ヤングの「真の文化的多様性」も含め、ではどうするか問題については、もう少しまとまったら書きたいと思います。個人的には政治学者の齋藤純一さんが論じる生や公共性の「複数性」「多次元性」や、人類学者の保苅実さんの「ギャップごしのコミュニケーション」などが参考になりそうな気がしています(あくまで予想です)。

 

 

参考文献***************

本田由紀,2020,『教育は何を評価してきたのか』<岩波新書1829>岩波書店
本田由紀伊藤公雄編,2017,『国家がなぜ家族に干渉するのか――法案・政策の背後にあるもの』<青弓社ライブラリー89>青弓社
木村涼子,2017,『家庭教育は誰のもの?――家庭教育支援法はなぜ問題か』<岩波ブックレット965>岩波書店
酒井朗,1999,「「指導の文化」と教育改革のゆくえ――日本の教師の役割意識に関する比較文化論的考察」油布佐和子編『教師の現在・教職の未来――あすの教師像を模索する』教育出版,115-137.
――――,2014,『教育臨床社会学の可能性』勁草書房
Young, Jock., 2007,The vertigo of late modernity, London: Sage Publications.木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳,2008[2019],『後期近代の眩暈:排除から過剰包摂へ』青土社.)

*1:2018-9年にかけて小中学校では教科に格上げされました。

*2:URL先は2020年12月6日現在、確認しました

*3:もちろん、このような背景には問題の責任と対応を子どもや家庭に求めることで公的な教育支出を抑制するといった新自由主義的な発想もあります。

*4:後者への介入については本田・伊藤(2017)や木村(2017)を参照してください。

*5:また教師の子どもへの関与の仕方にカウンセラー的な要素が含まれること、またその要素が日本の教師文化である「指導の文化」と親和的なことも指摘されます(例えば酒井 2000,2014)。

*6:そもそも同書での本田の仕事は他者との共生の在り方を論じることではないと思うので、筆者のような指摘は酷であると思いますが...。

*7:ここでは現代とほぼ同じ意味として捉えてください。

*8:存在論的不安とか、アイデンティティ危機といった事態です。社会や他者からの承認が不安定だからこそ、自己と他者を区別するための本質性が強調されるわけですが、その例にヤングは「マスキュリニティ」を挙げています。この点は、教育社会学者の木村涼子さんや男性学の多賀太さんが1990年代に既に指摘していたことでもあります。

*9:このような差異を有するコミュニティの特徴についてはヤング(2007=2008:365-8)を参照してください。

【メモ20201002】レポートを書くときに参考になりそうな資料一覧[随時更新]

花王株式会社生活者研究センター(2017)『生活者定点調査にみる家族の10年―家庭のなかの「個」と、家族の距離感の変化』
(2020年10月1日取得,https://www.kao.co.jp/content/dam/sites/kao/www-kao-co-jp/lifei/report/pdf/39.pdf .)

→他にも、花王が独自に実施したさまざまな研究レポートが掲載されており興味深い( https://www.kao.co.jp/lifei/ )。

 

博報堂生活総合研究所『生活定点1992‐2018』
博報堂生活総合研究所ホームページ,2020年10月1日取得,https://seikatsusoken.jp/teiten/ .)

 

統計数理研究所『日本人の国民性調査』
統計数理研究所ホームページ,2020年10月1日取得,https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/index.html .)

→1953年より5年毎に調査。最近はホームページの更新もなく、2018年度の調査結果(そもそも調査が実施されたのかも不明)が分からない。

 

〇貧困統計ホームページ

(貧困統計ホームページ,2020年9月25日取得,https://www.hinkonstat.net/ .)

→このホームページは、子どもの貧困研究を専門になさっている阿部彩さんが文部科学研究費助成金事業「「貧困学」のフロンティアを構築する研究(平成29‐32年度)」の研究成果として作成・更新しているものになります。日本国内における貧困の実態や貧困・社会的排除の研究動向について知るにはとてもよいサイトです。

 

〇子どもの貧困調査研究コンソーシアム

(子どもの貧困調査研究コンソーシアムホームページ,2020年9月25日取得,https://kodomo-hinkon-research.org/overview.)

 

 

野村総合研究所(2018)『生活者1万人アンケート(8回目)にみる日本人の価値観・消費行動の変化』

野村総合研究所ホームページ,2020年6月3日取得,  https://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/knowledge/report/cc/mediaforum/2018/forum272.pdf?la=ja-JP&hash=11CCF832BC6EC6481392389F6BBD74B4D12C51A2.)

 

東京大学大学院教育学研究科・教育学部 中村高康 研究室(2013)『教育と仕事に関する全国調査』

(中村高康研究室ホームページ,2020年5月15日取得,http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~tknaka/survey .)

 

 

期待。

ちょっと、思ったことを書きました。

 

【追記】

先日、入構が出来なくなった学校へ、久方ぶりに行った。
3月31日に慌てて荷物をまとめ、図書館で本を借りたとき以来のことである。
開いていない正門、
誰も歩かなくなった道に生える苔、
入学おめでとうと、学生のいない食堂の扉に飾られる桜、
利用者のいない地下鉄の駅に置かれるアルコール消毒液、
そこに時間は流れていない。
時間がその場に充満し、
充満した時間が、ただその場に横たわっているだけ。
移ろいという、一方向の性質は、そこでは道標を見失って、どこへ向かおうか迷子になっているみたい。
過去も、未来も、現在も混在した空気のようなものがそこには漂っているだけ。

帰りの地下鉄で、3年前の哲学の講義で聴いたアウグスティヌスの話を
ふと思い出す。
講義のメモが入ったタブレットを開く。
そこには、
「現在というものは、現在でなくなることによって現在といえる」
「なぜなら、もし現在が、現在のままであれば、それは一切の変化を排除することになり、永遠になってしまうだろう。永遠になってしまえば、時間は消滅する」
「だから、現在が現在であるためには、現在が現在でなくなるのでなければならない」
と書いてある。

現在という時間は、まず存在して、そして存在しなくなるという移ろいを本質としているのであって、
過去も未来も、根本には現在に依拠しているという。
「存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在において存在する」
「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在という、三つの現在が存在する」

あぁ、いま心身を通じて感じるこの時間、わたしの存在のどことない揺らぎ。
しかし、不思議と、そこに無力感も悲しさもない。
淡々と目の前にある事実を受け入れるだけだ。
過ぎ去っても、未だ来なくても、どこまでもある今という、現在をだ。
無間に現在だ。

何か月も置きっぱなしになっていた、定期購読雑誌。
購買で購入。そして、またしばらく学校には入れないからと、定期購読を解約。
距離をとるので、わたしと店員との会話に余白はない。
無駄のないやりとり、無駄は許されない。
購入したひとつ、岩波書店『図書』の8月号に小池昌代さんの文章が掲載されている―「抱擁」。
そこで吉田一穂(いっすい)の詩を引用して、次のように小池さんは書いている。

 むかし、吉田一穂という詩人が、「母」という詩の冒頭で、「あゝ麗はしい距離(ディスタンス)/つねに遠のいてゆく風景」と書いた。すべて詩に連想が飛ぶのは、悪癖だが、ウイルス対策で、ヒトとの距離を開ける必要があると聞いたとき、思いだしたのは、あの一行だった。
 母もふるさとも、幼い頃は、自分と一体化したものだった。長じるにつれ、故郷を出、母のもとを離れ一人で立つ。そこに初めて距離が生まれる。思慕や郷愁、懐かしさや憎しみ。あら ゆる感情も、そのなかに湧いてくる。距離とはすなわち、場所や人を対象化するまでの、時間の膨らみを言うのだろう。
 ウイルス対策における、ヒトとヒトとの距離に、そういう情緒はない。最初から、開けることが要請されている物理的・社会的な距離だ。「距離」を詠嘆調で歌ったあの一行に、わたし は前世ほどに遠く無力なものに感じた。(小池 2020:2-3)

情緒。
仮に、わたしがいま浸っている現在という時間から、
抜け出すとしたら、
おそらく情緒が必要なんだろう。
アウグスティヌスが言った、「心の働き」とも関連するもの。
2メートルという、定量的な距離でも
2時間という、定量的な滞在時間でも、
複数人、という定量的な集合でも、
20代、という定量的な世代でもない、
心身から湧いてくる感情、
測ることのできない変質的な移ろいが、
いまのわたしには必要なんだろう。

でも。
わたしは、それを必要としているのか。
むしろ。
「情緒が押しつぶされ、偽善の入り込む余地もない距離には、むしろ即物的な清々しさがある。」(小池 ibid)
そうか、空間に横たわる、流れを失ったあの時間に、なんの焦りも感じなかったのは、
無機質さえ感じたからだ。

カレンダーで8月になったので、
思いだして、ここに来たけれども、
いまのわたしに、何が書けるか。
結局書いたものは、
楽観的にも悲観的にもとれない、喜びとも悲しみともとれない
つかみどころのない、
いまの自分の心身の身構え。
どこかあきらめていて、醒めている。
あれ、意外に平気なのか。
あ、でも、やっぱり。

定量的な1人の私と、
定量的な1人のあなたが
定量的な2メートルを飛び越える、その日まで。
測られる距離にない未だ来ないもの―未来に、
わたしは期待している、
「抱擁できる日がきっとやってくる」と。