都内の私大で社会学を専攻していた元文系院生が就社社会に参入してからの記録

都内の大学院で社会学を専攻していた元文系院生が、修論を何とか書いて就社社会にいかに馴染んでいくのかを自身で観察するブログです。

疑似科学/科学リテラシーと教育―「心」に焦点化する教育

秋頃に、「心」に焦点化する教育政策というテーマでゼミ報告する機会がありました。戦前の修身から戦後の道徳*1への連なりの中で、教育が子どもや大人(教員)の態度や関心といった心の在り方に介入しようとする試みがどのような意味をもつのか考察しました。


ここでは、報告作成時に参考にした文献やホームページが現場や日常生活でも役立ちそうなものだったので、ご紹介したいと思います。

 


以下では、そのときの報告内容について少しだけ書きます。

東京都は「「こころの東京革命」の推進」事業を10年間ほどおこなっていました。事業の概要については東京都の報道発表と、東京都財務局の事業評価表で確認してください*2

事業の理由と目的には次のように書かれています。

家庭や地域の教育力が低下したこと等に伴い、子供の規範意識や倫理観に欠ける問題行動等が深刻であった(東京都財務局 2018)

この手の政策でしばしば見るような、お馴染みの文章です。こうした青少年向けの教育政策ですが、その流れとしては

  1. 大人が理解できない子どもの出現
    →凶悪な非行少年、最新テクノロジーを駆使する子ども、増えたと見なされる障害児や体の弱い児童など

  2. 家庭や地域の教育力の低下
    →教育力がいわゆる「しつけ」に相当する

が雑な因果関係で結び付けられ始まることが往々にしてあります*3

そのなかで子ども個人は理解不能な存在に、子どもを教育する親や家族は教育力不足として、それぞれが改善の必要がある存在として見なされていきます。そして、それぞれに対して教育的介入―もちろん福祉の領域でも就労や自立といった用語で介入はあります―がなされていきます。

前者への介入の一つとして、今回筆者がゼミで報告した「心」の教育などが挙げられます*4。心の教育は、問題の帰責を当人のマインドに求める「心理主義化」とも関連しますし、個人の考え方や在り方の水平的な画一化(本田 2020)を助長するものでもあります*5。いずれにしても、理解不能な存在を理解可能な存在へと子ども個人を変えていくような教育政策の存在報告では指摘しました。

さらに以下では、ある他者を理解不能な存在として、介入対象とすることについてもう少しだけ話します。
例えば、本田は「水平的画一性」はある一定の層(大抵はマイノリティ)を排除すると指摘し、個人の在り方をa,b,c といった「水平的多様化」を創造していく必要があると述べています(本田 2020)。それは「個々人が、様々な独特なあり方で生きられる(本田 2020:235)ことの実現を意味します。

ですが、本田の議論ではマイノリティも含む個人の在り方がa,b,c と並ぶときに誰も排除されないのか、という点について論じられていません。つまりは、多様な個人の在り方が存在するとされる社会についての構想がここでは論じきられていないように思います。

筆者がゼミで報告した内容は、本田が指摘するような「水平的画一性」を実現するための教育政策のひとつです。それは理解不能な他者を理解可能な存在にするための方途です。a,b,cと並ぶ存在を、a,a,aとするような発想です。本田はこのa,a,a を問題であると指摘しているわけですが、では多様性が確保されたとするa,b,c の状況でaはbを(そんなにすんなりと)理解しすることができるのでしょうか。さらに言えば、aとbの共生はどのようにして実現できるのでしょうか*6

ここで犯罪学者のヤングの議論を引用してみたいと思います。
後期近代*7では「大人が理解できない子ども」が、全くの理解不能な存在者―異質者alienとして認識されるのではありません。むしろ理解可能性を前提にした理解できない存在として認識されます。言いかえれば、「不足つまりある特定の価値観に立脚したところからみて不利であることを強調する」(Young 2007=2008:20) ような他者理解です。

「ある特定の価値観に立脚」してとあるように、ヤングが指摘するような他者理解は、明確な境界線を画定してこちらとあちらに分断するような形で行われるわけではありません。他者を異物としてあからさまに排除するわけでもありません。むしろ、あちらとこちらを分ける分断線が文脈に応じて何回も引き直される点に特徴があります。引かれる線は大きな差異としてではなく、微細な―しかし幾重にも複雑に引かれる差異なのです。

後期近代では経済的な(再)分配が機能不全な状況ですし、また自己の存在を規定する文化的な承認も不確実な状況です*8。両者ともに、内実は混沌としています。ですから、いつ誰があちら側に立つかについての予測は立ちづらい状況です。そのなかで、立ち現れる微細な差異は、エスニシティジェンダー、階級といった多元的なものであり、また「雑種混交」なものであり、断片的で集合的で、強くもあり弱くもあり、固定的で移ろいやすくもあり、充足的で剥奪的なものでもあります*9。そのような特徴を備える差異は、あるときは<私>を包摂し、ある時には<私>を排除するような「移ろい」を社会にもたらします。

この点において、包摂と排除は一方向に単線的に発生するのではなく、複線的で同時多発的に起きているのです。言いかえれば、遠心力と求心力を、または吸収と排斥を同時に行う社会であるということです(Young 2007=2008)。

さて、筆者のゼミ報告やここでの記述内容は、教育の現場で対峙する他者(子ども)の理解の可能性や仕方のあり方を念頭に置いたものです。それは、ある個人を理解不能な存在として同定し、対象者の心を把握することで理解可能な存在として位置づけようとする試みです。つまりは、個人の存在を理解可能な範疇で掌握しようとするものでもあります。しかし、そのような試みには画一性に適うか否かで、ある一定の層を排除する可能性をもあります。

他方で、画一性を打破して個々人の差異を認める多様性を実現すれば、全てが解決するかというと必ずしもそうではありません。ヤングも指摘しているように、差異はA とB を区分するほど明確なものではありません。自己と他者の境界線はとても曖昧で、移ろいやすいことが後期近代の特徴です。したがって、必ずしもa,b,c の併存をもって排除の可能性—もちろん同時に包摂の可能性もあります―をゼロにすることはできません

では、どうするか。この点を考えなければなりません。いろいろな方途が考えられると思います。ヤングは「真の文化的多様性」Young 2007=2008:275)の可能性を挙げます。ヤングの「真の文化的多様性」も含め、ではどうするか問題については、もう少しまとまったら書きたいと思います。個人的には政治学者の齋藤純一さんが論じる生や公共性の「複数性」「多次元性」や、人類学者の保苅実さんの「ギャップごしのコミュニケーション」などが参考になりそうな気がしています(あくまで予想です)。

 

 

参考文献***************

本田由紀,2020,『教育は何を評価してきたのか』<岩波新書1829>岩波書店
本田由紀伊藤公雄編,2017,『国家がなぜ家族に干渉するのか――法案・政策の背後にあるもの』<青弓社ライブラリー89>青弓社
木村涼子,2017,『家庭教育は誰のもの?――家庭教育支援法はなぜ問題か』<岩波ブックレット965>岩波書店
酒井朗,1999,「「指導の文化」と教育改革のゆくえ――日本の教師の役割意識に関する比較文化論的考察」油布佐和子編『教師の現在・教職の未来――あすの教師像を模索する』教育出版,115-137.
――――,2014,『教育臨床社会学の可能性』勁草書房
Young, Jock., 2007,The vertigo of late modernity, London: Sage Publications.木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳,2008[2019],『後期近代の眩暈:排除から過剰包摂へ』青土社.)

*1:2018-9年にかけて小中学校では教科に格上げされました。

*2:URL先は2020年12月6日現在、確認しました

*3:もちろん、このような背景には問題の責任と対応を子どもや家庭に求めることで公的な教育支出を抑制するといった新自由主義的な発想もあります。

*4:後者への介入については本田・伊藤(2017)や木村(2017)を参照してください。

*5:また教師の子どもへの関与の仕方にカウンセラー的な要素が含まれること、またその要素が日本の教師文化である「指導の文化」と親和的なことも指摘されます(例えば酒井 2000,2014)。

*6:そもそも同書での本田の仕事は他者との共生の在り方を論じることではないと思うので、筆者のような指摘は酷であると思いますが...。

*7:ここでは現代とほぼ同じ意味として捉えてください。

*8:存在論的不安とか、アイデンティティ危機といった事態です。社会や他者からの承認が不安定だからこそ、自己と他者を区別するための本質性が強調されるわけですが、その例にヤングは「マスキュリニティ」を挙げています。この点は、教育社会学者の木村涼子さんや男性学の多賀太さんが1990年代に既に指摘していたことでもあります。

*9:このような差異を有するコミュニティの特徴についてはヤング(2007=2008:365-8)を参照してください。