都内の私大で社会学を専攻していた元文系院生が就社社会に参入してからの記録

都内の大学院で社会学を専攻していた元文系院生が、修論を何とか書いて就社社会にいかに馴染んでいくのかを自身で観察するブログです。

期待。

ちょっと、思ったことを書きました。

 

【追記】

先日、入構が出来なくなった学校へ、久方ぶりに行った。
3月31日に慌てて荷物をまとめ、図書館で本を借りたとき以来のことである。
開いていない正門、
誰も歩かなくなった道に生える苔、
入学おめでとうと、学生のいない食堂の扉に飾られる桜、
利用者のいない地下鉄の駅に置かれるアルコール消毒液、
そこに時間は流れていない。
時間がその場に充満し、
充満した時間が、ただその場に横たわっているだけ。
移ろいという、一方向の性質は、そこでは道標を見失って、どこへ向かおうか迷子になっているみたい。
過去も、未来も、現在も混在した空気のようなものがそこには漂っているだけ。

帰りの地下鉄で、3年前の哲学の講義で聴いたアウグスティヌスの話を
ふと思い出す。
講義のメモが入ったタブレットを開く。
そこには、
「現在というものは、現在でなくなることによって現在といえる」
「なぜなら、もし現在が、現在のままであれば、それは一切の変化を排除することになり、永遠になってしまうだろう。永遠になってしまえば、時間は消滅する」
「だから、現在が現在であるためには、現在が現在でなくなるのでなければならない」
と書いてある。

現在という時間は、まず存在して、そして存在しなくなるという移ろいを本質としているのであって、
過去も未来も、根本には現在に依拠しているという。
「存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在において存在する」
「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在という、三つの現在が存在する」

あぁ、いま心身を通じて感じるこの時間、わたしの存在のどことない揺らぎ。
しかし、不思議と、そこに無力感も悲しさもない。
淡々と目の前にある事実を受け入れるだけだ。
過ぎ去っても、未だ来なくても、どこまでもある今という、現在をだ。
無間に現在だ。

何か月も置きっぱなしになっていた、定期購読雑誌。
購買で購入。そして、またしばらく学校には入れないからと、定期購読を解約。
距離をとるので、わたしと店員との会話に余白はない。
無駄のないやりとり、無駄は許されない。
購入したひとつ、岩波書店『図書』の8月号に小池昌代さんの文章が掲載されている―「抱擁」。
そこで吉田一穂(いっすい)の詩を引用して、次のように小池さんは書いている。

 むかし、吉田一穂という詩人が、「母」という詩の冒頭で、「あゝ麗はしい距離(ディスタンス)/つねに遠のいてゆく風景」と書いた。すべて詩に連想が飛ぶのは、悪癖だが、ウイルス対策で、ヒトとの距離を開ける必要があると聞いたとき、思いだしたのは、あの一行だった。
 母もふるさとも、幼い頃は、自分と一体化したものだった。長じるにつれ、故郷を出、母のもとを離れ一人で立つ。そこに初めて距離が生まれる。思慕や郷愁、懐かしさや憎しみ。あら ゆる感情も、そのなかに湧いてくる。距離とはすなわち、場所や人を対象化するまでの、時間の膨らみを言うのだろう。
 ウイルス対策における、ヒトとヒトとの距離に、そういう情緒はない。最初から、開けることが要請されている物理的・社会的な距離だ。「距離」を詠嘆調で歌ったあの一行に、わたし は前世ほどに遠く無力なものに感じた。(小池 2020:2-3)

情緒。
仮に、わたしがいま浸っている現在という時間から、
抜け出すとしたら、
おそらく情緒が必要なんだろう。
アウグスティヌスが言った、「心の働き」とも関連するもの。
2メートルという、定量的な距離でも
2時間という、定量的な滞在時間でも、
複数人、という定量的な集合でも、
20代、という定量的な世代でもない、
心身から湧いてくる感情、
測ることのできない変質的な移ろいが、
いまのわたしには必要なんだろう。

でも。
わたしは、それを必要としているのか。
むしろ。
「情緒が押しつぶされ、偽善の入り込む余地もない距離には、むしろ即物的な清々しさがある。」(小池 ibid)
そうか、空間に横たわる、流れを失ったあの時間に、なんの焦りも感じなかったのは、
無機質さえ感じたからだ。

カレンダーで8月になったので、
思いだして、ここに来たけれども、
いまのわたしに、何が書けるか。
結局書いたものは、
楽観的にも悲観的にもとれない、喜びとも悲しみともとれない
つかみどころのない、
いまの自分の心身の身構え。
どこかあきらめていて、醒めている。
あれ、意外に平気なのか。
あ、でも、やっぱり。

定量的な1人の私と、
定量的な1人のあなたが
定量的な2メートルを飛び越える、その日まで。
測られる距離にない未だ来ないもの―未来に、
わたしは期待している、
「抱擁できる日がきっとやってくる」と。