都内の私大で社会学を専攻していた元文系院生が就社社会に参入してからの記録

都内の大学院で社会学を専攻していた元文系院生が、修論を何とか書いて就社社会にいかに馴染んでいくのかを自身で観察するブログです。

ジェンダー史学会シンポジウム「優生学とジェンダー」その他

12月13日にジェンダー史学会の年次大会にて、シンポジウム「優生学ジェンダー −不妊手術(断種)を中心に−」が開催されます(すでに参加受付は終了しています)。

同シンポジウムは、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制されたとして国を訴えた裁判(旧優生保護法国賠訴訟)と、その判決が続くなかでの開催となります。直近の判決は前週の月曜日(11月30日)に大阪地方裁判所より出されました。判決要旨としては以下のようになります。

  1. 優生保護法が、憲法13条に違反していたと認定。
    →旧優生保護法が、性と生殖における個人の自由と、その意思決定をする自由、また当人の意思に反して身体への侵襲を受けない自由を侵してたと判断

  2. 優生保護法が、憲法14条に違反していたと認定。
    →旧優生保護法が、合理的理由なく障害者を差別し、法の下の平等を侵害していたと判断。これまでの東京地裁仙台地裁では、旧優生保護法が障害者を差別していたとする判断をしていなかった(むしろ、判断がなされていなかった方が驚き)。

  3. 国の立法不作為については、国家賠償法上の違法性が認められない。
    →また民法上の除斥期間20年を適用し、国の賠償責任は認められないと判断。

優生学はさまざまな領域にかかわるものであり、雑に論じることはむしろ優生学の「死への権力」―より正確に言えば規律化された「生を死へと投げ捨てる(廃棄する)権力」の作動に組するものだと私は思っています。

その一方で、この問題の途方もない大きさや広さ、深さに対して「どうせ自分には分からない」「どうせ私には関係ない」と思うこと、さらには「どうせ〇〇だし」(〇〇には社会的弱者とされるさまざまなカテゴリーが入る)と言及することも、また優生学の作動に組するものだと思われます。特に『アシュリー事件』の著者、児玉真美さんが「「どうせ」が共有されていくすべり坂」(児玉 2011:157)と表現するように、個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識の集合は、いつの間にか社会意識として醸成されていく可能性を伴います。

確かに私としても優生学について学ぶことの難しさは、学部での講義を受けて以来感じています、ですが、今でも命の選別や、条件付きの生存権に関する話を尽きないなか「どうせ」の共有に私は懸念をしています。難しいことではありますが、あきらめずに向き合っていきたいと思う次第です。

最後に、「個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識」―特に自己を卑下するような意識について少しだけ書きます。
先の記事でも書きましたが、ヤングは後期近代が微細な差異の境界を画定するとめどない実践を特徴としていると指摘しています(Young 2007=2008)。であるならば、私もこの社会からいつ追い出されるか―逆に言えばいつまでこちら側にとどまっていられるかは明らかではありません。自己存在への不安でいっぱいです。

では、そのような状況にいる個人はどのような実践をとるのでしょうか。
いくつか考えられると思いますが、そのひとつに高度な「自己のモニタリング」「自己管理」が挙げられると思います。社会学者のバウマンとメイは次のように言います(少し長いですがそのまま引用します)。

わたしたちは「適正」と見なされる状態に自分の身体をもっていくために、最善を尽くさなければならない。
この過程は、わたしたちがいかなる社会で生活しているか、自分の身体をしっくりいっているかどうかに左右される。わたしたちは自分の身体の管理を一つの課業タスクととらえる。それは、日々の配慮や注意を要する仕事である。身体の管理が自分の課業となると、望ましい体型の基準や、それに近づくためにしなければならない活動の基準が社会的に設けられる。そのような基準に従うことができなことは、「恥ずかしい」という思いをもたらし、そのような要求を満たすことができない人々は、日常的に「差別されている」という感情をもつ。(Bauman and May 2001=2016:214-5)


ここで重要なことは次の点にまとめられます。

  1.  適正とされる身体の基準に自身が合致することよりも、基準に近づくための自己管理と自己への配慮が要求されること
  2.  そのような社会的要求に応えられないことが「恥ずかしい」「差別」と認識されること
  3. (もう少し正確に言えば)自己管理ができていない自己が、自分自身のことを恥ずかしい存在だと捉えられてしまうこと

つまりは、身体や体型が例えば痩せているか、太っているかというよりも、ある身体に関する基準—ここでは「~べき」という規範に近いものだと思います―への接近に「努める」ことが良きものとされているのです。ここでの、身体への基準とはおそらく「痩せている」「色白」「艶のある髪」などが一般に挙げられると思います。

もう少しだけ話をすると、このようにある価値規準への行為の(ある種の)水路づけの作用をフーコーは「生‐権力」という概念を用いて説明します。例えば、それはギャンブル依存症患者はパチンコを「する」、「しない」ではなく「してはならない」の選択を迫られるような事態を指します。ここでの話に合わせるならば、「痩せる」「太る」というよりも「太ってはならない」という選択を「肥満症や生活習慣病の患者、その予備軍、そして現時点で健康だとされる人間に対して迫ってくる事態です*1*2

さて、自己管理ができないことは恥ずかしく、自己管理ができない自分は差別の対象であると感じてしまう事態は、社会における本人の存在位置に著しい影響を及ぼすものです。端的に言えば自分が排除の対象になりかねない状況です。排除の対象に自身がならないようにするために、身体に関する「自己管理」はより必要性を増してくるように思われます。なぜならば、自己管理をして適正な身体基準に近づくための努力をしている自己は恥ずかしくなく、差別されない存在だからです。

ただし、このことには直ちに「一応」と留保する必要はあります。それはなぜでしょうか。そもそも、適正な身体基準とは何でしょうか。自己管理のゴールはどこにあるのでしょうか。それっぽいものは思いついても、「これだ」と確実な正解で示せるものはなかなか見つからないのではないでしょうか。

ここで問題となるのは、自己の身体を管理することをタスクとして要求されつつも、その一方でタスクの終わりとなる基準が一向に示されない(分からない)という際限のなさです。しかもこの際限のない自己管理の動機の一部には、自分は恥ずかしい存在かもしれない、差別されて排除されるかもしれないという不安が含まれています。後期近代において、こちらとあちらを分ける境界は微細な差異によって曖昧化しています。「これが(自己管理の)ゴール=自分は恥ずかしくない存在だと思える基準だ」と思っていても、それは移ろいやすい差異の世界ではなかなか確証が得づらいものです。であるならば、自己管理を終えることも、休むことも難しくなります。むしろ、自己管理はどんどん加速していく可能性すらあります。

上野は相模原障害者殺傷事件の特集記事で「高齢者の自己差別」について次のように述べています。

差別のなかでもっとも深刻な差別は、自己差別ではないだろうか。他の誰かに差別される以前に、自分が自分を差別する。それが自尊感情を損ない、人を無力化し、貶める。(上野 2016)

ここでは、自身の「老い」ることが「社会のお荷物」という差別される存在になることと結びつき、それを全力で自己否定する様子を指摘しています。そして、相模原障害者殺傷事件の場合には、加害者のなかにあった「障害者性」と「社会のお荷物」の結びつきをを苛烈に否定するした結果が、他者=障害者への殺傷に向かったのではないかと論じている。
ただし、上野の議論では「老い」と「障害者性」がそのまま置き換えれてよいのかという疑問は残りますし、また先に挙げた「健康」を上野の指摘する「老い」と置き換えることも慎重にならないといけません。
しかし、少なくとも自己差別―自分は恥ずかしい存在かもしれない、差別をされる存在かもしれないという気持ちを常に内面化する状況は、自己管理を越えて自己への過剰な介入=自己検閲になること、そして結果的に自己と他者への排除に結び付くのではないかと筆者は考えています。

「個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識」について私見を書いてきましたが、このような意識に対して単に「自己肯定感を高めよう」というエールを送ることはむしろ本人の抱える不安を煽り、置かれる状況をさらに過酷なものにしかねません。そうではなく。自己管理を強いられる社会、自己管理を社会的自立の一形態として過度に称揚する社会のあり方に目を配っていくことが、筆者は大切かと思っています。

 

 

参考になりそうなもの(教育に関わるものを中心に)

〇岩下誠,2016,「イギリスの教育思想」眞壁宏幹編『西洋教育思想史』慶応大学出版会.
→特に4節「新教育運動の教育思想」にある「優生学教育心理学と新教育」「メリトクラシーと新教育」は面白い内容です。岩下さんも編著者である、『問いからはじまる教育史』(<有斐閣ストゥディア>有斐閣,2020)は今年出たばかりの教育史に関する最新の参考書です。

*1:ここでは身体に関する話ですが、例えばマインド(心の在り方)に関する議論もあります。詳しくはローズ(1989[1999,2006]=2016)や、堀之内(2016)を参照してください。

*2:身体への規範的なまなざしや介入については、特に「数字」「統計」と関連させて議論されることが多々あります。
例えば、石井は優生学研究の第一人者で日本民族衛生学会初代会長を務めた永井潜のテクスト分析を通して、永井が「生殖」概念をいかに語り、いかに記述していったかについて考察している(石井 2009a, 2009b)。そこでは、永井が「生殖」概念を恣意的に誰かを抑圧していくものとして運用していったのではなく、家計・偉人調査などの「あくまでも」科学的・客観的な新しい基準(知識)を駆使しながら結果的に個人の可能性をまさに方向づけていくものとして運用していったことが指摘されている。
他にも、磯野は人間の食べるという行為に数字(カロリーや塩分量など)が介在してくることで、食と食に関わる具体的な意味や文脈を有する世界からの切り離しがなされると指摘しています(磯野 2019)。そのことを「脱文脈化」とか数字が世界の彩を消すなどと磯野は表現しています。
石井と磯野の指摘に共通することは、客観的で価値中立的だとされる数字の存在です。磯野は数字には管理者の世界観が入り込むと指摘しています。石井は永井―磯野が言うところの管理者に当たる人間―が他者に対する抑圧の意図の有無にかかわらず、数字の利用によって人間の存在の仕方の可能性を方向づけたと指摘しています。両者の指摘の主眼は管理者の悪意の有無ではありません。人間や、人間の行為を数字で捉えることが可能になったなかで、いかにして数字が人間の内面に介入してくるかということに主眼が置かれているように思われます。言い換えれば人間の均一化や同質化を、人間自身が内面化してしまうような数字のネガティブな作用の「仕方」のことでもあります。