都内の私大で社会学を専攻していた元文系院生が就社社会に参入してからの記録

都内の大学院で社会学を専攻していた元文系院生が、修論を何とか書いて就社社会にいかに馴染んでいくのかを自身で観察するブログです。

教育社会学に関連するブックリスト(*不定期更新)

数年前に、すしむら(藤村達也)さんが書いた教育社会学のブックリスト記事を読み、学部生の頃にこのような指南の記事があったらよかったのになぁ、と思っていました(もちろん、自分で書籍や論文を探すのも楽しいですし、そうした営みも大事ですが...)。
そうした思いもあり、自分もブックリストを作ってみようと思い、人知れずこのブログで細々と書いていました。ですが、先日すしむらさんが記事をリニューアルしていたこともあり、私も勝手に後を追い、このたび記事を大幅にリニューアルすることにしました(イェーイ👐)

 

本記事におけるブックリストは、以下のようなゆるやかな基準のもとで作成しています。

  • 書籍は、新書や文庫に限定しません。
  • 価格が1,000円程度であるかどうか*1
  • 書籍の分類は、日本教社会学会の学会報告要旨収録などを参考にした筆者の独自のものです*2
  • 当該書籍の本題が教育に関わるものではなくても、当該書籍で1章以上のの扱いがあり、かつ本リストの分類上有益であると判断した場合は、本リストに収録しています。
  • 価格が高騰しているなどで、古本での入手があまりにも難しい場合を除いて、絶版や品切れの書籍も選んでいます。
  • 教育社会学に関わりがある内容でしたら、異なる分野の書籍や、ルポルタージュやノンフィクションの書籍なども一部で選んでいます。
    ルポルタージュやノンフィクション書籍などは*マークを付け、太字・斜字で表します。(教育)社会学以外の書籍には、*マークを付けています(抜けアリ)。
  • リンクは基本的に出版社のサイトにしていますが、出版社のサイトページが見つからない場合は、Amazonのサイトとリンクしています。

筆者が読んできた書籍を中心にリストを作成しましたので、見落としている書籍も多々あるかと思います。「このテーマなら、この本も欠かせない!」というものがありましたら、ご教示くださると助かります。

総論・概論

日本の教育に関わるさまざまな現象やデータ、知識について網羅的かつ説明的に著しています。

苅谷(1998→2005)は、もともとは『毎日中学生新聞』に1997年から半年間掲載していた文章を講談社より単行本化したものです。内容は、隠れたカリキュラムや階層と教育的達成の関係、教師の仕事、生徒という地位・役割など。新聞に掲載されていた文章だけあって、とても読みやすい文章です。「確かに!」「あの時は、こういうことだったのか」など、これまでの学校経験を振り返りながら読むことのできる、読者のペース配分がしやすい本になります。

ただ、内容が少し古いところもありますので、中澤(2021)や広田(2022)で内容を補うのがいいかもしれません。広田(2004,2009)は、やや専門的ですが、特に『教育』の方は20年経ったいまでも色褪せない内容かと思います。

中澤(2018)は、以下に挙げる書籍のなかでもあまり見かけない高等教育論や収益率、教育政策とEBPMにも言及している貴重で、欲張りな書籍になります。松岡編(2021)や小松・ラブリー(2021)は、手堅い内容ですので、今の教育の動向を把握したい大人でも、読み応えがあります。

学校史・教育史

著者 タイトル 出版社 レーベル
山住正己 『日本教育小史――近・現代』 1987 岩波書店 岩波新書_363
木村 元 『学校の戦後史』 2015 岩波書店 岩波新書_1536
小国喜弘 『戦後教育史――貧困・校内暴力・いじめから、不登校・発達障害問題まで』 2023 中央公論新社 中公新書_2747

誰でも行くこと(就学・通学すること)が当たり前になった近代の学校と、そこで営まれた教育の形成、成熟、揺らぎが、戦後日本においてどのような経過をたどったのか、木村(2015)と小国(2023)より理解できるかと思います。


近代社会システムのうちの教育

子どもの貧困,若者と貧困,貧困から社会的排除

著者 タイトル 出版社 レーベル
阿部 彩 『子どもの貧困――日本の不平等を考える』 2008 岩波書店 岩波新書_1157
阿部 彩 『弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂』 2011 講談社 講談社現代新書_2135
阿部 彩 『子どもの貧困Ⅱ――解決策を考える』 2014 岩波書店 岩波新書_1467
*青砥 恭 『ドキュメント高校中退――いま、貧困がうまれる場所』 2009 筑摩書房 ちくま新書_809
朝日新聞取材班 『子どもと貧困』 2016
→2018
朝日新聞出版 朝日文庫
*鳫 咲子 『給食費未納――子どもの貧困と食生活格差』 2016 光文社 光文社新書_842
*保坂 渉・池谷孝司 『子どもの貧困連鎖』 2012
→2015
光文社
→新潮社
新潮文庫
宮本みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』 2002 洋泉社 洋泉社新書y_074
宮本みち子 『若者が無縁化する――仕事・福祉・コミュニティでつなぐ』 2012 筑摩書房 ちくま新書_947
*仁藤夢乃 『女子高生の裏社会――「関係性の貧困」に生きる少女たち』 2014 光文社 光文社新書_711
*仁藤夢乃 『難民高校生――絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル』 2014
→2016
英治出版
筑摩書房
ちくま文庫
荻上チキ 『彼女たちの売春(ワリキリ)』 2012
→2017
扶桑社
→新潮社
新潮文庫
*山野良一 『子どもの最貧国・日本――学力・心身・社会におよぶ諸影響』 2008 光文社 光文社新書_367
*山野良一 『子どもに貧困を押しつける国・日本』 2014 光文社 光文社新書_718
*湯浅 誠 『「なんとかする」子どもの貧困』 2017 角川書店 角川新書

 

教育による選抜、社会への配分

著者 タイトル 出版社 レーベル
天野郁夫 『教育と選抜の社会史』 1982
→2006
筑摩書房 ちくま学芸文庫
麻生 誠 『日本の学歴エリート』*3 1991
→2009
玉川大学出版部
講談社
講談社学術文庫_1974
竹内 洋 『学歴貴族の栄光と挫折』 1994
→2011
講談社 講談社学術文庫_2036
竹内 洋 『立志・苦学・出世——受験生の社会史』 1991
→2015
講談社 講談社学術文庫_2318
斉藤利彦 『試験と競争の学校史』 1995
→2010
平凡社
講談社
講談社学術文庫_2043
苅谷剛彦 『大衆教育社会のゆくえ――学歴主義と平等神話の戦後史』 1995 中央公論新社 中公新書_1249
苅谷剛彦 『教育と平等――大衆教育社会はいかに生成したか』 2009 中央公論新社 中公新書_2006
広田照幸 『陸軍将校の教育社会史――立身出世と天皇制 上』 1997
→2021
筑摩書房 ちくま学芸文庫
広田照幸 『陸軍将校の教育社会史――立身出世と天皇制 下』 1997
→2021
筑摩書房 ちくま学芸文庫
本田由紀 『軋む社会』 2008
→2011
河出書房新社 河出文庫
本田由紀 『社会を結びなおす――教育・仕事・家族の連携へ』 2014 岩波書店 岩波ブックレット_899
本田由紀 『もじれる社会――戦後日本型循環モデルを超えて』 2014 筑摩書房 ちくま新書_1091
本田由紀 『「日本」ってどんな国?――国際比較データで社会が見えてくる』 2021 筑摩書房 ちくまプリマー新書_386
小熊英二 『日本社会の歴史――雇用・教育・福祉の歴史社会学』 2019 講談社 講談社現代新書_2528

 

能力主義メリトクラシー

著者 タイトル 出版社 レーベル
桜井智恵子 『子どもの声を社会へ――子どもオンブズマンの挑戦』 2012 岩波書店 岩波新書_1353
中村高康 『暴走化するメリトクラシー――教育と現代社会の病理』 2018 筑摩書房 ちくま新書_1337
本田由紀 『教育は何を評価してきたか』 2020 岩波書店 岩波新書_1829
*神代建彦 『「生存競争」教育への反抗』 2020 集英社 集英社新書_1029E

 

教育と格差

社会階層と学力・教育達成、社会移動

著者 タイトル 出版社 レーベル
苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子 『調査報告 「学力低下」の実態』 2002 岩波書店 岩波ブックレット_578
苅谷剛彦 『学力と階層』 2008
→2012
朝日新聞出版社 朝日文庫
志水宏吉・伊佐夏実・知念 渉・芝野淳一 『調査報告 「学力格差」の実態 』 2014 岩波書店 岩波ブックレット_900
吉川 徹 『学歴分断社会』 2009 筑摩書房 ちくま新書_772
吉川 徹 『日本の分断――切り離される非大卒若者(レッグス)たち』 2018 光文社 光文社新書
松岡亮二 『教育格差――階層・地域・学歴』 2019 筑摩書房 ちくま新書_1422
松岡亮二・髙橋史子・中村高康 『東大生、教育格差を学ぶ』 2023 光文社 光文社新書
*齋藤貴男 『機会不平等』 2000
→2004
→2012
文藝春秋
岩波書店
岩波現代文庫
志水宏吉 『ペアレントクラシー――「親格差時代」の衝撃』 2022 朝日新聞出版 朝日新書_871
山田昌弘 『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』 2004
→2007
筑摩書房 ちくま文庫
山田昌弘 『新型格差社会』 2021 朝日新聞出版 朝日新書_811

 

教育と移行(トランジション)

教育から労働へ

著者 タイトル 出版社 レーベル
阿部真大 『搾取される若者たち――バイク便ライダーは見た!』 2006 集英社 集英社新書_0361B
阿部真大 『働きすぎる若者たち――「自分探し」の果てに』 2007 NHK出版 生活人新書_221
玄田有史 『仕事のなかの曖昧な不安――揺れる若年の現在』 2001
→2005
中央公論新社 中公文庫
玄田有史・曲沼美恵 『ニート――フリーターでもなく失業者でもなく』 2004
→2006
幻冬舎 幻冬舎文庫_0195
児美川孝一郎 『若者はなぜ「就職」できなくなったのか――生き抜くために知っておくべきこと』 2011 日本図書センター ニッポンの教育問題
濱口桂一郎 『若者と労働――「入社」の仕組みから解きほぐす』 2013 中央公論新社 中公新書ラクレ_465
本田由紀内藤朝雄後藤和智 『「ニート」って言うな!』 2006 光文社 光文社新書_237
本田由紀 『教育の職業的意義――若者・学校・社会をつなぐ』 2009 筑摩書房 ちくま新書_817
*工藤 啓・西田亮介 『無業社会――働くことができない若者たちの未来』 2014 朝日新聞出版 朝日新書_465
今野晴貴 『ブラックバイト――学生が危ない』 2016 岩波書店 岩波新書_1602
*岩田弘三 『アルバイトの誕生――学生と労働の社会史』 2021 平凡社 平凡社新書_988

 

キャリア教育、職業教育、就職活動

著者 タイトル 出版社 レーベル
難波功士 『「就活」の社会史――大学は出たけれど…』 2014 祥伝社 祥伝社新書_384
*田中研之輔 『先生は教えてくれない就活のトリセツ』 2018 筑摩書房 ちくまプリマー新書
児美川孝一郎 『キャリア教育のウソ』 2013 筑摩書房 ちくまプリマー新書
児美川孝一郎 『夢があふれる社会に希望あるか』 2016 KKベストセラーズ ベスト新書
森岡孝二 『就活とブラック企業――現代の若者の働きかた事情』 2011 岩波書店 岩波ブックレット_805
*安田 雪 『大学生の就職活動――学生と企業の出会い』 1999 中央公論新社 中公新書_1462

 

教育と家族

ここの部分は、家事・子育てや少子化問題や保育園問題とそれら政策論議、多様な家族形成などを含めるとキリがないので、またいずれ別稿でまとめたいと思います。

教育する家族

著者 タイトル 出版社 レーベル
広田照幸 『日本人のしつけは衰退したか――「教育する家族」のゆくえ』 1999 講談社 講談社現代新書_1448
*鈴木 亮 『塾不要——親子で挑んだ公立中高一貫校受験』 2007 ディスカヴァー・トゥエンティワン ディスカヴァー新書
望月由起 『小学校受験——現代日本の「教育する家族」』 2022 光文社 光文社新書_1234

広田(1999)はすでに名著と化した気もしますね。個人的に、鈴木(2007)は、中学受験をしようか筆者が迷っていた(というよりも親に勧められた?)タイミングで読んだ思い出深い本です。改めて読み直すと、まさに教育する家族の奮闘ぶり(家族や親戚が1人の子どもの中学受験の合格にどれだけ動員され、尽力するのか)が平易な文章で著されている良書だと思います*4

 

子育て、虐待

著者 タイトル 出版社 レーベル
*末冨芳・桜井啓太 『子育て罰——「親子に冷たい日本」を変えるには』 2021 光文社 光文社新書_1143
*武田信子 『社会で子どもを育てる――子育て支援都市トロントの発想』 2002 平凡社 平凡社新書_162
*武田信子 『やりすぎ教育——商品化する子どもたち』 2021 ポプラ社 ポプラ新書_208

 

子ども・青年の誕生と拡散

著者 タイトル 出版社 レーベル
*河原和枝 『子ども観の近代——『赤い鳥』と「童心」の理想』 1998 中央公論社 中公新書_1403

 

ジェンダーと教育

著者 タイトル 出版社 レーベル
*打越さく良 『レンアイ、基本のキ――好きになったらなんでもOK?』 2015 岩波書店 岩波ジュニア新書_814
田中俊之 『男子が10代のうちに考えておきたいこと』 2019 岩波書店 岩波ジュニア新書_900

家族や子育て、セクシュアルマイノリティと切り離してリスト化すると、ここで挙げられる書籍は、性的同意などについて書かれている打越(2015)や、男性学の田中(2019)しかでてきませんでした。

 

マイノリティの教育保障とオルタナティブな教育

特別支援教育・(日本型)インクルーシブ教育

著者 タイトル 出版社 レーベル
安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法[第3版]――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』 1990
→1995
→2012
藤原書店
生活書院
 
茂木俊彦 『障害児と教育』 1990 岩波書店 岩波新書_131
茂木俊彦 『障害児教育を考える』 2007 岩波書店 岩波新書_1110
*柘植雅義 『特別支援教育――多様なニーズへの挑戦』 2013 中央公論新社 中公新書_2218
*小笠原 毅 『学校から拒否される子どもたち――就学時健診と就学指導』 1990 岩波書店 岩波ブックレット_177
*小笠原 毅 『就学時検診を考える』 1998 岩波書店 岩波ブックレット_465
*小笠原 毅編 『新版 就学時検診を考える――特別支援教育のいま』 2019 岩波書店 岩波ブックレット_991
*天畠大輔 『<弱さ>を<強み>に――突然複数の障がいをもった僕ができること』 2021 岩波書店 岩波新書_1898

新書などのかたちで供給が追いついていない印象です(実際に見かけることがないので、筆者が見落としている書籍がありましたら教えてください!)。また、障害といった社会的カテゴリーに対象を限定されない、社会的排除を経験する・しやすいさまざまなマイノリティも含み込んだインクルーシブ教育に関する包括的な書籍も、現在のところ刊行がありません。

特別支援教育しかりインクルーシブ教育(正確には「日本型インクルーシブ教育」?)が進められるなかで、誰も置いていかない社会と教育の構想は障害児に限らずさまざまなマイノリティや不利益を現在被っている子どもにとって重要な意義をもつはずです。しかし、その意義や、またその意義の構想の歴史を著した書籍は今のこところ不足しているのが実情のように思われます。

実際、数少ない書籍の一つである茂木(2007)は、2006年に国連総会で採択された「障害者の権利に関する条約」で示されるインクルーシブ教育の理念や、2007年の特殊教育から特別支援教育への制度移行を関連づけて論点整理しています。ただし、章立てから垣間見えるように発達保障論の視点が強く、この書籍だけで障害児教育やインクルーシブ教育を理解するのは、やや厳しいように感じます。また、柘植(2013)は国内におけるこれまでの障害児教育(特殊教育と特別支援教育)の制度・政策を通史する手堅い書籍になります(大学院の講義内容が基になったようです)。

なお、安積ほか(2012)や天畠(2021)では、養護学校や特別支援学校、大学で生活を送るにあたっての差別やディスアビリティの経験などを考察しています。

 

学校効果論――「効果のある学校」「力のある学校」など

著者 タイトル 出版社 レーベル
志水宏吉 『公立小学校の挑戦――「力のある学校」とはなにか』 2003 岩波書店 岩波ブックレット_611
志水宏吉 『学力を育てる』 2005 岩波書店 岩波新書_978
志水宏吉 『公立学校の底力』 2008 筑摩書房 ちくま新書_742
志水宏吉 『学力格差を克服する』 2020 筑摩書房 ちくま新書_1511
黒川祥子 『県立!再チャレンジ高校――生徒が人生をやり直せる学校』 2018 講談社 講談社現代新書_2477
*朝比奈なを 『ルポ 教育困難校』 2019 朝日新聞出版 朝日新書_724
*朝比奈なを 『進路格差――<つまずく生徒>の困難と支援に向き合う』 2022 朝日新聞出版 朝日新書_887

教育達成(学力)と社会階層の相関関係が国内でも指摘されてきた1990年代から2000年代初頭にかけて、志水は社会的に不利な立場に置かれる子ども(特に貧困層の子ども)への社会的支援が、「処遇の平等」を重視し、貧困層などの社会的カテゴリーにいる子どもへの差異的な処遇(今でいうところの「特別な支援」)を避ける日本的平等観によってなされていないことを指摘します。

そこで、欧米における人種や社会階層上で社会的不利な立場に置かれる子どもと、そうでない子どもの学力格差*5を解消する学校(Effective School/効果のある学校)の試みとその議論を援用・敷衍し、社会階層の低い子ども等に対して「すべての子どもがもつ、確かな学力を獲得する権利を実現させること」(志水 2020:37)―すなわち「学力保障」を実際におこなう国内の学校を観察・考察した内容をまとめたのが『学力を育てる』をはじめとする一連の書籍となります。

こうした「学力保障」の取り組みが、社会的な承認や卒業後に自立した社会生活を送るためのスキルや技能の獲得の実践*6と共に営まれていることをレポートしたのが、黒川(2018)です。

 中学で疎外されていた子どもたちの「受け皿」としての高校――これって、今までにない高校じゃないか。渡辺は、なんだかワクワクした。
 中学で勉強できなかった子たちが、勉強がわかるようになる学校、ソッポを向かれていた子どもたちがちゃんと受け入れられる学校。できなくてもやる気のある子たちが、中学校の内容でもいいから勉強がわかるようになって卒業していく、それが、「再チャレンジ」っていう意味なのか。(黒川 2018:185)

ちなみに、『学力を育てる』の30頁に掲載されている「カリキュラム改革の振り子」の図は、例えば小針(2018:153ー155)でも引用されているように戦後の教育カリキュラム史を理解する際に、頻繁に引用・紹介されており、また5頁の「学力の樹」も教育学・教職に関する参考書でしばしば目にするように思います。

 

エスニック・マイノリティと教育

著者 タイトル 出版社 レーベル
*朴 三石 『外国人学校――インターナショナル・スクールから民族学校まで』 2008 中央公論新社 中公新書_1970
*朴 三石 『知っていますか、朝鮮学校』 2012 岩波書店 岩波ブックレット_846
*田中 宏 『在日外国人 第三版――法の壁,心の溝』 2013 岩波書店 岩波新書_1429
*西山隆行 『移民大国アメリカ』 2016 筑摩書房 ちくま新書_1193
*菊池 聡 『<超・多国籍学校>は今日もにぎやか!――多文化共生って何だろう』 2018 岩波書店 岩波ジュニア新書_886
永吉希久子 『移民と日本社会――データで読み解く実態と将来像』 2020 中央公論新社 中公新書_2580

朴(2008)や菊池(2018)を除いて、エスニック・マイノリティと教育をテーマにした書籍の刊行は少ないように感じます。そのなかで、田中(2013)はエスニック・マイノリティが国内で直面してきた問題について、西山(2016)はアメリカ国内における移民政策に係る問題について、一部言及をしています。また、永吉(2020)は第5章の「移民受け入れの長期的影響」にて、移民二世の地位達成や教育達成について、移民一世の社会的統合や教育制度の設計の点より言及をしています。

教育社会学では、長らくニューカマーや、その子どもが経験するミクロ・マクロな教育問題について研究が進められています。そうしたなかで、現在の技能実習生の問題や入管法に関する議論なども含めた、エスニックマイノリティや移民と教育に関する書籍のさらなる刊行の需要は十分にあるように個人的には思います。

 

セクシュアル・マイノリティと教育

著者 タイトル 出版社 レーベル
上川あや 『変えてゆく勇気――「性同一性障害」の私から』 2012 岩波書店 岩波新書_1064
風間 孝・河口和也 『同性愛と異性愛』 2010 岩波書店 岩波新書_1235
森山至貴 『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』 2017 筑摩書房 ちくま新書_1242
砂川秀樹 『カミングアウト』 2018 朝日新聞出版 朝日新書_666
*遠藤まめた 『みんな自分らしくいるためのはじめてのLGBT』 2021 筑摩書房 ちくまプリマー新書_377
神谷悠 『差別は思いやりでは解決しない ジェンダーやLGBTQから考える』 2022 集英社 集英社新書
*周司あきら・高井ゆと里 『トランスジェンダー入門』 2022 集英社 集英社新書

ごらんの通り、小見出しとリストアップした書籍がうまく適っていないように思われます。
現時点でも、個人のセクシュアリティにおける社会的な肯定や承認が峻別される社会構造が存在します。そうした現況を鑑みると、自らも含めたあらゆるセクシュアリティの人びとの性の多様性を尊重し、肯定・社会的に承認するための学び(性教育を含む学び)の機会や権利の保障が欠かせません。しかし、実際にそうした学びの保障がどのようにして実現されているのか、またはそのような学びの実現における課題や障壁にどのようなものがあるのかなどを論じる書籍の供給は、あまり多くないように思います。

そのなかで、児玉(2009)は七生養護学校(当時)で先進的に実践されていた性教育に対する右派によるバックラッシュとその裁判について、また風間・河口(2010)は第4章「ホモフォビア異性愛主義」の第1節「教育現場のなかの同性愛」で異性愛主義の学校現場や、当事者が直面するいじめ・自殺について言及をしています。

 

高等教育論

カリキュラム、内部質保証

著者 タイトル 出版社 レーベル
金子元久 『大学の教育力――何を教え、学ぶか』 2007 筑摩書房 ちくま新書_679

 

教育費用の負担、奨学金政策

著者 タイトル 出版社 レーベル
小林雅之 『進学格差――深刻化する教育費負担』 2008 筑摩書房 ちくま新書_758
大内裕和 『奨学金が日本を滅ぼす』 2017 朝日新聞出版 朝日新書_604
今野晴貴 『ブラック奨学金』 2017 文藝春秋 文春新書_1112
*堤 未果 『ルポ 貧困大国アメリカ』 2008 岩波書店 岩波新書_1112
*堤 未果 『ルポ 貧困大国アメリカⅡ』 2009 岩波書店 岩波新書_1225
*堤 未果 『社会の真実のみつけかた』 2011 岩波書店 岩波ジュニア新書_673
雨宮処凛入江公康・栗原 康・白井 聡・高橋若木・布施祐仁・マニュエル・ヤン 『経済的徴兵制をぶっ潰せ!――戦争と学生』 2017 岩波書店 岩波ブックレット_971

修学支援新制度が運用されるなど教育費負担の新たな政策が実行されるなかで、奨学金問題含めた国公私立大学の運営に係る政策動向を踏まえた教育費負担の考察をおこなう新書の刊行が、小林(2008)以降でみられないのが実情でしょうか。

アメリカの教育ローンや返済に伴う経済的徴兵の実態(取材当時)について、堤(2008)の第4章「出口をふさがれる若者たち」や堤(2009)の第1章「公教育が借金地獄に変わる」、堤(2011)の第1章(p.38-)や第2章「教育がビジネスになる」に詳しく書いてあります。

 

大学経営、大学改革;これまでの大学・これからの大学

著者 タイトル 出版社 レーベル
麻生 誠 『大学と人材養成——近代化にはたす役割』 1970 中央公論新社 中公新書_221
吉見俊哉 『大学とは何か』 2011 岩波書店 岩波新書_1318
吉見俊哉 『「文系学部廃止」の衝撃』 2016 集英社 集英社新書
広田照幸石川健治・橋本伸也・山口二郎 『学問の自由と大学の危機』 2016 岩波書店 岩波ブックレット_938
吉見俊哉 『大学は何処へ――未来への設計』 2021 岩波書店 岩波新書_1874
佐藤郁哉 『大学改革の迷走』 2019 筑摩書房 ちくま新書_1451
駒込 武編 『「私物化」される国公立大学』 2021 岩波書店 岩波ブックレット_1052
田中圭太郎 『ルポ 大学崩壊』 2023 筑摩書房 ちくま新書_1708

 

近代大学史

著者 タイトル 出版社 レーベル
天野郁夫 『大学の誕生(上)――帝国大学の時代』 2009 中央公論新社 中公新書_2004
天野郁夫 『大学の誕生(下)――大学への挑戦』 2009 中央公論新社 中公新書_2005
天野郁夫 『帝国大学――近代日本のエリート育成装置』 2017 中央公論新社 中公新書_2324

 

公教育の運営、教育と政治・行政

教育行政

著者 タイトル 出版社 レーベル
*青木栄一 『文部科学省――揺らぐ日本の教育と学術』 2021 中央公論新社 中公新書_2635
*新藤宗幸 『教育委員会――何が問題か』 2013 岩波書店 岩波新書_1455
*中嶋哲彦 『教育委員会は不要なのか――あるべき改革を考える』 2014 岩波書店 岩波ブックレット_908
*辻田真佐憲 『文部省の研究――「理想の日本人像」を求めた百五十年』 2017 文藝春秋 文春新書_1129

 

教育政策

著者 タイトル 出版社 レーベル
小針 誠 『アクティブラーニング――学校教育の理想と現実』 2018 講談社 講談社現代新書_2471

 

教育改革;あるべき教育の終わりなき論争

著者 タイトル 出版社 レーベル
森嶋通夫 『サッチャー時代のイギリス――その政治、経済、教育』 1988 岩波書店 岩波新書_49
*尾崎ムゲン 『日本の教育改革――産業化社会を育てた130年』 1990 中央公論新社 中公新書_1488
堤 清二・橋爪大三郎 『選択・責任・連帯の教育改革』 1999 岩波書店 岩波ブックレット_471
藤田英典 『教育改革――共生時代の学校づくり』 1997 岩波書店 岩波新書_511
藤田英典 『新時代の教育をどう構想するか――教育改革国民会議の残した課題』 2001 岩波書店 岩波ブックレット_533
藤田英典 『義務教育を問いなおす』 2005 筑摩書房 ちくま新書_543
藤田英典 『教育改革のゆくえ――格差社会か共生社会か』 2006 岩波書店 岩波ブックレット_688
藤田英典 『誰のための「教育再生」か』 2007 岩波書店 岩波新書_1103
*市川伸一 『学力低下論争』 2002 筑摩書房 ちくま新書_359
苅谷剛彦 『教育改革の幻想』 2002 筑摩書房 ちくま新書_329
苅谷剛彦・清水睦美・堀 健志・松田洋介・藤田武志・山田哲也 『検証 地方分権化時代の教育改革――脱「中央」の選択 ;地域から教育課題を立ち上げる』 2005 岩波書店 岩波ブックレット_662
苅谷剛彦・安藤 理・内田 良・清水睦美・藤田武志・堀 健志・松田洋介・山田哲也 『検証 地方分権化時代の教育改革――教育改革を評価する;犬山市教育委員会の挑戦』 2006 岩波書店 岩波ブックレット_685
苅谷剛彦・清水睦美・藤田武志・堀 健志・松田洋介・山田哲也 『検証 地方分権化時代の教育改革――杉並区立「和田中」の学校改革』 2008 岩波書店 岩波ブックレット_738
*阿部菜穂子 『イギリス「教育改革」の教訓――「教育の市場化」は子どものためにならない』 2007 岩波書店 岩波ブックレット_698
小川正人 『教育改革のゆくえ――国から地方へ』 2010 筑摩書房 ちくま新書_828
*佐藤 学・勝野正章 『安倍政権で教育はどう変わるか』 2013 岩波書店 岩波ブックレット_874
志水宏吉 『検証 大阪の教育改革――いま、何が起こっているのか』 2012 岩波書店 岩波ブックレット_833
*中嶋哲彦 『教育の自由と自治の破壊は許しません。――大阪の「教育改革」を超え、どの子も排除しない教育をつくる』 2013 かもがわ出版 かもがわブックレット_191
*永尾俊彦 『ルポ 大阪の教育改革とは何だったのか』 2022 岩波書店 岩波ブックレット_1063

 

カリキュラム・教育課程、入試改革

著者 タイトル 出版社 レーベル
紅野謙介 『国語教育の危機——大学入学共通テストと新学習指導要領』 2018 筑摩書房 ちくま新書_1354
紅野謙介 『国語教育——混迷する改革』 2020 筑摩書房 ちくま新書_1468
阿部公彦沼野充義納富信留・大西克也・安藤 宏・東京大学文学部広報委員会 『ことばの危機——大学入試改革・教育政策を問う』 2020 集英社 集英社新書_1024
石井洋二郎 『危機に立つ東大——入試制度改革をめぐる葛藤と迷走』 2020 筑摩書房 ちくま新書_1473
*鳥飼玖美子 『英語教育の危機』 2018 筑摩書房 ちくま新書_1298
*鳥飼玖美子 『10代と語る英語教育——民間試験導入延期までの道のり』 2020 筑摩書房 ちくまプリマー新書_357
寺沢拓敬 『小学校英語のジレンマ』 2020 岩波書店 岩波新書_1826

鳥飼(2020)は、臨教審以降の英語科における政策動向を分析しており、ちくまプリマー新書の枠を超える内容です。また寺沢(2020)も、第6章「現在までの改革の批判的検討」で英語科の政策論議の問題点に、第7章「どんな効果があったのか」で政策効果や教育効果についてそれぞれ言及をしています。

疲弊する学校と教員;評価、多忙・過労

著者 タイトル 出版社 レーベル
苅谷剛彦・諸田裕子・妹尾 渉・金子真理子 『検証 地方分権化時代の教育改革――「教員評価」』 2009 岩波書店 岩波ブックレット_752
今津孝次郎 『教師が育つ条件』 2012 岩波書店 岩波新書_1395
内田 良 『教育という病――子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』 2015 光文社 光文社新書_760
*朝比奈なを 『教員という仕事――なぜ「ブラック化」したのか』 2020 朝日新聞出版 朝日新書_791
内田 良・上地香杜・加藤一晃・野村 駿・太田知彩 『調査報告 学校の部活動と働き方改革――教師の意識と実態から考える』 2018 岩波書店 岩波ブックレット_989
中澤篤史・内田 良 『「ハッピーな部活」のつくり方』 2019 岩波書店 岩波ジュニア新書_903
内田 良・広田照幸・髙橋 哲・嶋﨑 量・斉藤ひでみ 『迷走する教員の働き方改革――変形労働時間制を考える』 2020 岩波書店 岩波ブックレット_1021
内田 良・斉藤ひでみ・嶋﨑 量・福嶋尚子 『#教師のバトン とはなんだったのか――教師の発信と学校の未来』 2021 岩波書店 岩波ブックレット_1056
玉木正之・小林信也編 『真夏の甲子園はいらない――問題だらけの高校野球』 2023 岩波書店 岩波ブックレット_1077

 

教育と国家、学問と政治、科学と軍事

著者 タイトル 出版社 レーベル
茂木俊彦 『都立大学に何が起きたのか――総長の2年間』 2005 岩波書店 岩波ブックレット_660
*澤藤統一郎 『「日の丸・君が代」を強制してはならない――都教委通達違憲判決の意義』 2006 岩波書店 岩波ブックレット_691
*土肥信雄・藤田英典尾木直樹西原博史・石坂 啓 『学校から言論の自由がなくなる――ある都立高校長の「反乱」』 2009 岩波書店 岩波ブックレット_749
*田中伸尚 『ルポ 良心と義務――「日の丸・君が代」に抗う人びと』 2012 岩波書店 岩波新書_1362
*池内 了 『科学者と戦争』 2016 岩波書店 岩波新書_1611
*池内 了・小寺隆幸編 『兵器と大学――なぜ軍事研究をしてはならないか』 2016 岩波書店 岩波ブックレット_957
*池内 了・隠岐さや香・木本忠昭・小沼通二・広渡清吾 『日本学術会議の使命』 2021 岩波書店 岩波ブックレット_1051
*羽田貴史・広渡清吾・水島朝穂・宮田由紀夫・栗島智明 『危機の中の学問の自由――世界の動向と日本の課題』 2022 岩波書店 岩波ブックレット_1068

 

その他;学級、教科書、道徳教育、主権者教育、給食

著者 タイトル 出版社 レーベル
志水宏吉 『全国学力テスト――その功罪を問う』 2009 岩波書店 岩波ブックレット_747
*佐藤 学 『習熟度別指導の何が問題か 』 2004 岩波書店 岩波ブックレット_612
*石山久男 『教科書検定――沖縄戦「集団自決」問題から考える』 2008 岩波書店 岩波ブックレット_734
新井紀子 『ほんとうにいいの?――デジタル教科書』 2012 岩波書店 岩波ブックレット_859
*俵 義文 『戦後教科書運動史』 2020 平凡社 平凡社新書_963
*新藤宗幸 『「主権者教育」を問う』 2016 岩波書店 岩波ブックレット_953
*教育史学会編 『教育勅語の何が問題か』 2017 岩波書店 岩波ブックレット_974
*牧下圭貴 『学校給食』 2009 岩波書店 岩波ブックレット_751
*藤原辰史 『給食の歴史』 2017 岩波書店 岩波新書_1748

 

教育と経済(教育経済学)

教育投資と収益・効用

著者 タイトル 出版社 レーベル
*荒井一博 『学歴社会の法則――教育を経済学から見直す』 2007 光文社 光文社新書_330
橘木俊詔 『日本の教育格差』 2010 岩波書店 岩波新書_1258

 

教育問題;逸脱と非行

学校の「ともだち」との関係から/へ

著者 タイトル 出版社 レーベル
鈴木 翔 『教室内カースト』 2012 光文社 光文社新書_616
土井隆義 『「個性」を煽られる子どもたち――親密圏の変容を考える』 2004 岩波書店 岩波ブックレット_633
土井隆義 『友だち地獄――「空気を読む」世代のサバイバル』 2008 筑摩書房 ちくま新書_710
土井隆義 『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における人間像』 2009 岩波書店 岩波ブックレット_759
土井隆義 『つながりを煽られる子どもたち――ネット依存といじめ問題を考える』 2014 岩波書店 岩波ブックレット_903
森 真一 『ほんとはこわい「やさしさ社会」』 2008 筑摩書房 ちくまプリマー新書_074
森 真一 『友だちは永遠じゃない――社会学でつながりを考える』 2014 筑摩書房 ちくまプリマー新書_222
菅野 仁 『友だち幻想――人と人の〈つながり〉を考える』 2008 筑摩書房 ちくまプリマー新書_079
石田光規 『「友だち」から自由になる』 2022 光文社 光文社新書_1222
石田光規 『「人それぞれ」がさみしい――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』 2022 筑摩書房 ちくまプリマー新書_392

教育現場や学校での人間関係、<ともだち>関係について考察する著作は、継続的に出版されています。
朝井リョウ『桐島、部活辞めるってよ』(2010→2012,集英社)で人口に膾炙した「スクールカースト」を考察した鈴木(2012)や、又吉直樹が愛読している*7ことでベストセラーになった『友だち幻想』(菅野 2008)、互いに傷つけない・かないよう高度に配慮しあう関係を「優しい関係」と指摘した土井の一連の著作(土井 2004,2008,2009,2014)が、これまで定番のラインナップでした。そして昨年には、石田(2022)の書籍も2冊刊行されています。


現代社会を(で)生きる若者

著者 タイトル 出版社 レーベル
宮台真司 『制服少女たちの選択――After 10 Years』 1994
→2006
朝日新聞出版 朝日文庫
宮台真司 『終わりなき日常を生きろ』 1995
→1998
筑摩書房 ちくま文庫
宮台真司 『まぼろしの郊外――成熟社会を生きる若者たちの行方』 1997
→2000
朝日新聞出版 朝日文庫
圓田浩二 『援交少女とロリコン男――ロリコン化する日本社会』 2006 洋泉社 洋泉社新書y_147
高原基彰 『不安型ナショナリズムの時代――日中韓のネット世代が憎しみ合う本当の理由』 2006 洋泉社 洋泉社新書y_151
赤木智弘 『若者を見殺しにする国』 2007
→2011
双風舎
朝日新聞出版
朝日文庫
雨宮処凛 『生きさせろ!――難民化する若者たち』 2007
→2010
太田出版
筑摩書房
ちくま文庫
*齋藤 環 『思春期ポストモダン――成熟はいかにして可能か』 2007 幻冬舎 幻冬舎新書_
山田昌弘 『なぜ若者は保守化したのか――希望を奪い続ける日本社会の真実』 2009
→2015
東洋経済新報社朝日新聞出版 朝日文庫
古市憲寿 『希望難民――ピースボートと「承認の共同体」幻想』 2010
→2022
光文社 知恵の森文庫・未来ライブラリー
古市憲寿 『絶望の国の幸福な若者たち』 2011
→2015
講談社 講談社+α文庫_256-2
中島岳志 『秋葉原事件――加藤智大の軌跡』 2011
→2013
朝日新聞出版 朝日文庫
土井隆義 『「宿命」を生きる若者たち――格差と幸福をつなぐもの』 2019 岩波書店 岩波ブックレット_1001
*稲田豊 『映画を早送りで観る人たち ――ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』 2022 光文社 光文社新書_1192

個人的には、浅野智彦さんや、牧野智和さん、羽渕一代さん、木村絵里子さんなどなど…の著作や論文のリストにしようかと思いました。なぜなら、底の抜けた社会(アノミーな社会)を軽やかに生きる若者を論じた宮台の議論*8から、格差社会の時代を生きる・生き抜くロスジェネ世代やゼロ年代の若者(当時)論の系譜に対する批判的応答や、溶解したとさえも指摘される<若者>をメルクマールとして論じる意義などを著す書籍(今回のブックリストに入る新書などの書籍)が、土井(2019)を除けば、現在までに続いていない印象だからです。もちろん、筆者自身のごく狭い観測範囲の意見ですので、今回のブックリストに入りそうな書籍がありましたら、教えてくださると非常に助かります。

山田(2009→2015)の議論は、パイプラインやいわゆる「既得権益」の瓦解が、むしろ性別役割分業規範を肯定するような旧来システムに一度でも入ってしまえば、経済的自由などを得られるという行動の選択や意識の醸成・揺り戻し=保守化をもたらしているのではないか、という議論をしています。

非行・少年犯罪

著者 タイトル 出版社 レーベル
芹沢一也浜井浩一 『犯罪不安社会――誰もが「不審者」?』 2006 光文社 光文社新書
*廣瀬健二 『少年法入門』 2021 岩波書店 岩波新書_1881
*鮎川 潤 『少年犯罪――ほんとうに多発化・凶悪化しているのか』 2001 平凡社 平凡社新書_080
*鮎川 潤 『新版 少年犯罪――18、19歳をどう扱うべきか』 2022 平凡社 平凡社新書_1013
*川名壮志 『記者がひもとく「少年」事件史――少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す』 2022 岩波書店 岩波新書_1941

少年法の改正や、いわゆる少年犯罪の「凶悪化」(とする社会的認識の高まり)などもあって、良質な新書の刊行が継続しているように思います。一方で、教育社会学での研究テーマ-例えば、少年犯罪のメディア報道による「心の闇」「凶悪化」言説の構築や、少年院等での矯正教育に関する書籍の刊行は、少ないように感じます。

いじめ・暴力・ハラスメント

著者 タイトル 出版社 レーベル
森田洋司 『いじめとは何か――教育の問題、社会の問題』 2010 中央公論新社 中公新書_2066
内藤朝雄 『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』 2009 講談社 講談社現代新書_1984
今津孝次郎 『学校と暴力――いじめ・体罰問題の本質』 2014 平凡社 平凡社新書_
荻上チキ 『いじめを生む教室――子どもを守るために知っておきたいデータと知識』 2018 PHP研究所 PHP新書_1150
内田 良 『学校ハラスメント――暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か』 2019 朝日新聞出版 朝日新書_709
神戸大学人間発達環境学研究科ヒューマンコミュニティ創成研究センタージェンダー部門 『なくそう!スクール・セクハラ――教師のためのワークブック』 2009 かもがわ出版 かもがわブックレット_173
*片岡大右 『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか――現代災い「インフォデミック」を考える』 2023 集英社 集英社新書_1152

「いじめの四層構造論」の森田(2001)や内藤(2008)の書籍はいじめ問題を読みとく際の必読書になりましたが、その後に続く書籍はどうでしょうか。そのなかで、片岡(2023)は、教育社会学におけるいじめの構築主義的アプローチを敷衍した考察をしています。

孤立・孤独、自殺(自死)、居場所

著者 タイトル 出版社 レーベル
渋井哲也 『ルポ 座間9人殺害事件――被害者はなぜ引き寄せられたのか』 2022 光文社 光文社新書_1178
渋井哲也 『ルポ 自殺――生きづらさの先にあるのか』 2022 河出書房新社 河出新書_054
*大空幸星 『望まない孤独』 2022 扶桑社 扶桑社新書_125
*末木 新 『「死にたい」と言われたら――自殺の心理学』 2023 筑摩書房 ちくまプリマー新書_428

子どもの自殺(自死)や、社会的孤立や孤独については社会で対処すべき問題としてコンセンサスが得られつつあるなかで、ルポルタージュや臨床現場で働く人間からの書籍は継続的に刊行されています。

教育の心理主義化・医療化

著者 タイトル 出版社 レーベル
*小沢牧子 『「心の専門家」はいらない』 2002 洋泉社 洋泉社新書y_057
*小沢牧子‣中島浩籌 『心を商品化する社会――「心のケア」の危うさを問う』 2004 洋泉社 洋泉社新書y_112
伊藤茂樹・広田照幸 『教育問題はなぜまちがって語られるのか?――「わかったつもり」からの脱却』 2010 日本図書センター どう考える?ニッポンの教育問題

 

不登校、ひきこもり、行方不明

著者 タイトル 出版社 レーベル
*石川結貴 『ルポ 居所不明児童――消えた子どもたち』 2015 筑摩書房 ちくま新書_1120
NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班 『ルポ 消えた子どもたち――虐待・監禁の深層に迫る』 2015 NHK出版 NHK出版新書_476
貴戸理恵 『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える』 2011 岩波書店 岩波ブックレット_806
*末冨 晶 『不登校でも大丈夫』 2018 岩波書店 岩波ジュニア新書_881
*浅見直輝 『居場所がほしい――不登校生だったボクの今』 2018 岩波書店 岩波ジュニア新書_884
奥地圭子 『明るい不登校――創造性は「学校」外でひらく』 2019 NHK出版 NHK出版新書_593
石川良子 『「ひきこもり」から考える――<聴く>から始める支援論』 2021 筑摩書房 ちくま新書_1611
林 恭子 『ひきこもりの真実――就労より自立より大切なこと』 2021 筑摩書房 ちくま新書_1621
*おおたとしまさ 『不登校でも学べる――学校に行きたくないと言えたとき』 2022 集英社 集英社新書_1125

 

学校文化、ユースカルチャー

著者 タイトル 出版社 レーベル
難波功士 『ヤンキー進化論――不良文化はなぜ強い』 2009 光文社 光文社新書_397

まだまだ入れるべき書籍はあるのでしょうが、だらだら編集して公開する時機を逃しそうなので、ここで一旦公開をします。随時リストには書籍を入れていこうと思います。

*1:本当は2,000円くらいまで幅を取れば、さらにここで紹介できる書籍も増えるのですが、最近の新書の出版状況(より専門的な内容になり、ページ数が増え、1,000円を越えることも珍しくなくなりました)や、学生の経済状況、図書館にも担架されやすい新書・ブックレットという形態を鑑み、1,000円程度(1,500円くらいまでが1,000円「程度」の許容範囲でしょうか)としました。

*2:おそらく他にも適切な分類の仕方があったかと思いますが、ご容赦ください。

*3:文庫化に伴い、底本の第7章「現代日本におけるエリート形成」が割愛されてしまったのは個人的に残念です。

*4:当時はそんなこと考えていなかったですが。ちなみに、次男編もあるそうですが長男編の本書がおすすめ。

*5:なお、志水は個人間の差(偏差)ではなく、ある社会的集団間にある集団差(格差)のうち、社会的平等や公正などの社会的・普遍的価値規準のもと「是正する必要がある」と判断された教育に関わる達成=結果の集団差を教育格差とし、そのコアとなる格差が学力格差であると述べています。(志水 2020)

*6:もしかすると、読者の中には本書で紹介される一連の実践を、労働市場への包摂やアクティベーションとして想起する人もいるかもしれません。
例えば、大阪府大阪市の西成区にある府立西成高校では、「貧困を生み出さない『新たな社会』を創造し、その実現のために現実に対して働きかけていく主体を形成していくこと」を目的とした「反貧困学習」を実践する「格差の連鎖を断つチカラのある学校」として有名です。こうした貧困を生み出す社会構造と、貧困状態にある自らや周囲の境遇を結び付けて反貧困学習のカリキュラムと、黒川がレポートする学校の取り組み・生徒へのアプローチを比較すると、どのような違いがあるのでしょうか。

*7:2018年4月14日放送の「世界一受けたい授業」にて「10年前の本になぜ今脚光が? ――又吉直樹が読み解く話題の書「友だち幻想」」の回で紹介した。

*8:宮台は、高度に成熟しきった社会を自在=軽やかに生きる象徴として援助交際をする少女を持ち出しましたが、後に彼女らは総じていわゆる「メンヘラ化」したと当時の議論を総括しています。(宮台 1994→2006)

教育行政における官民「連携」とはどのようなものか-GIGAスクール構想の遠隔教育の導入の過程より

教育行政学の講義で次の論稿(正確には研究ノート)を読んだので、そのメモを簡単に書きます。

渡邉志織,2020,「高校および小・中学校における遠隔教育政策の研究」『情報社会学会誌』15(1):99₋108.

 

♢研究目的・課題または論文の執筆目的

本稿は「遠隔教育導入の政策が、内閣設置の諸機関および規制改革推進会議と、文部科学省などの多数のアクター間において、どのような政策力学が生じ、展開してきたのか、および遠隔教育導入の政策が、規制改革の流れとどのようにかかわっているのかを明らかにする」ことが目的である。特に、遠隔教育導入の政策過程が、文部科学省や規制改革推進会議、地方公共団体などのアクター間の関係構造のもとでどのような影響を受けながら推移していったのかを、諸会議の議事録などより明らかにする。

 

♢結論または知見(論文が明らかにしたこと)

  1. 1990年代から2000年代の遠隔教育政策は、文部科学省が主体となって主に大学への導入を推進してきた。しかし、2010年代の遠隔教育政策は、規制改革推進会議などの要請や批判を文部科学省が受け入れかたちで、小中学校や高校への導入が展開された(されている)。
  2. 特に、規制改革推進会議が学校教育における対面原則や学校への在籍、人間教育、教師の役割などの現行の制度・前提を、遠隔教育導入の障壁(規制)と捉え、その緩和や撤廃を文部科学省に求める構図が、2010年代の遠隔教育政策の動向として確認される。
    したがって、小中学校や高校への遠隔教育の拡大は「文部科学省が自ら積極的に取り組んだものではなく、規制改革推進会議、教育再生実行会議[また、規制改革に結果的に与することになった自治体]からの要請に応じるかたちで実行に移され」たのである(107 括弧は引用者)。
  3. 2020年からのコロナウイルス感染症の流行により、感染症対策(;規制改革推進会議が遠隔教育を感染症対策の一つに現在挙げている)やそれに伴う小中学校や高校の一斉休校などの措置を講じる必要に迫られた文部科学省は、遠隔教育に係る要件の大幅な見直しや緩和をせざるを得なくなった。
    今回の感染症の流行を制改革推進会議が遠隔教育の導入の契機に捉え、感染症の終息後には遠隔教育の導入拡大を加速することが大いに予想される。

♢個人的意見・コメント

遠隔教育は「投資」であり、文部科学省や既存の学校教育の在り方がその投資の「規制」である、という規制改革の文脈で遠隔教育の導入が議論・実施されているように思われる。

一方で、本稿が示す文部科学省と規制改革推進会議などの規制改革派の議論において、文部科学省教育基本法に則る回答(例えば、人間教育や人間の陶冶)をしていたが、議論の中で教育の機会の保障や、「凡庸な格差社会」(松岡 2019)を形成してきた現行の教育システムの是正や改良などの観点で、遠隔教育の導入の是非が議論されてきたのか、気になるところである。少なくとも、規制改革派が言う遠隔教育の導入に伴う教育機会の保障は、実質的には過疎地域に住むまたは入院や自宅療養をしている子どもなどの事例を持ち出しており、普遍的な教育機会の保障を主張しているようには見えない。

であるならば、やはり現在議論される遠隔教育の導入は、社会的・経済的な「投資」の側面を有するものとして、規制改革派は捉えているのだろう。現行の学校制度(公教育)が、遠隔教育の導入にあたっての障壁や規制として捉えられ、そのことが再三にわたって批判されていることは、本稿でも何度も確認できる。

しかし、ここで批判を受ける障壁や規制は、単なる投資にとっての障壁や規制なのだろうか。むしろ、公教育における教育の機会を保障するために必要な障壁ではないのか。

遠隔教育(オンライン教育)の導入と実施によって、むしろ教育格差を拡大させる側面があることは既に指摘されている(多喜 2021)。
例えば総務省『令和元年通信利用動向調査(世帯構成員編)』の結果では世帯年収や居住地域によってインターネットの利用割合には差があることが示される。また2015年の国際学力調査TIMSSにおいては、親の学歴が高い家庭ほどICT機器の所持や利用の割合が高くなることが指摘される。さらには今般のコロナ禍においてオンライン教育の受講の割合が居住地域や世帯収入によって異なることも既に指摘されている(多喜・松岡 2019)。すなわち、遠隔教育(オンライン教育)を受けられる機会は、世帯収入や親学歴、居住地域によって差があるのである。

ただし、多喜が懸念することは、単に教育格差が遠隔教育の導入によって広げられることではない。つまりは個別最適化の実現を言い分に、民間企業が教育の世界に無制限に参入することで、子どもの学びの自己選択と自己責任の論理がより強く学校現場にもたらされるのではないか、という懸念である。特に。学びの自己選択において、選択は無色透明な行為ではない。選択は、出身階層や居住地域の影響を受けた行為である。そのように考えた時、民間企業の参入に伴う学びの多様化と個別最適化は、個人の学びの結果を自己の責任で引き受けるというロジックととても親和的だ(多喜 2021:179)。

このような学びの機会と結果の全てを自己責任で個人が引き取らない(引き取らせない)ための規制として、現行の学校制度は存在すると言える。少なくとも、規制改革派が述べる投資の障壁としてのみで、学校制度を捉えることは、あまりにも狭い見方であると言えよう。
※ちなみに、このあたりの教育の市場化に伴う、学校制度の脱標準化の流れについては、例えば、批判的教育学のマイケル・アップル『オフィシャル・ノレッジ批判―保守復権の時代における民主主義教育』(2007,東信堂)が考察をしています。参考までに。

 今回のコロナウイルス感染症の流行に際して、特徴的な場面があった。それは、「規制改革推進会議が」遠隔教育が感染症対策になるという指摘を出し、文部科学省がそれを受け入れるというものだ。遠隔教育の導入が感染症対策になることは、おそらく文部科学省も認識をしているだろう。問題は政策議論の構図である。つまりは、広く必要なことだと認識されている「感染症対策」を理由に「規制改革推進会議」が遠隔教育の導入を文部科学省に要請し、その要請を文部科学省が受けてしまったということだ。

この構図について2点、本記事の最後に指摘をしたい。

1点目は、コロナ禍における遠隔教育の導入が「ショック・ドクトリン」の様相を帯びているということだ。コロナ禍という惨事において、現行の教育制度は機能不全というピンチを迎える。しかし、規制改革派はそのピンチを経済改革のチャンスとして捉え、実際に感染症流行の早期に遠隔教育の導入を感染症対策の名目で文部科学省に要請している。だが、あくまでも感染症対策は名目に過ぎない。
むしろ、惨事のなかで、文部科学省が学校制度が普遍的な教育機会を保障する「規制」なのだという反論をする時間もないままに、経済的改革の実行という新自由主義(惨事便乗型資本主義/ショック・ドクトリン )の波に、公教育が飲みこまれてしまったようにも、筆者には思われる。

ショック・ドクトリンの信奉者たちは、社会が破壊されるほどの大惨事が発生した時にのみ、真っ白で巨大なキャンパスが手に入ると信じている(Klein 2007=2011:28)

www.iwanami.co.jp

www.iwanami.co.jp

 

2点目は、本記事のタイトルにもある官民連携についてだ。
遠隔教育の導入は、今後民間企業の参入によって進められていくことが予想される。遠隔教育の導入も含む政府の未来社会構想0に係る事業において、教育と産業の連携は必須だ(児美川 2021)。しかし、実際には本稿で確認されるような、規制改革派の要求に折れるかたちで文部科学省が既存の制度を変えるといった連携のあり方を取る。特に、コロナ禍における遠隔教育の急速な導入の場面は象徴的だ。これらから分かるように、官民の連携は教育サイドと民間事業者が対等な立場で連携がなされるわけでは必ずしもない。そして、そのような不均衡な連携は、教育が民間企業の投資先としてみなされる、つまりは公教育が市場として大胆に開放され(児美川 2021)、投資のリターンを得るために教育がより競争的なものになっていくという未来をもたらすだろう。

 

【参考文献】

児美川孝一郎(2021)「GIGAスクールというディストピア : Society5.0に子どもたちの未来は託せるか?」『世界』940:41-53.

松岡亮二(2019)『教育格差--階層・地域・学歴』<ちくま新書1422>筑摩書房

多喜弘文(2021)「ICT導入で格差拡大 日本の学校アメリカ化する日」『中央公論』135(1):172-181
※本文の抜粋版(2021年4月20日取得, https://chuokoron.jp/society/116248.html

多喜弘文・松岡亮二(2020)「新型コロナ禍におけるオンライン教育と機会の不平等 プレスリリース資料」(2021年4月20日取得, 
https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/download/471561/1e9d544a131558d8e92fe5ec4b784f63/19560?col_no=2&frame_id=963374

 

追記
2021年4月21日 一部表記を修正した。
2021年4月30日 一部リンクを追加した。

ジェンダー史学会シンポジウム「優生学とジェンダー」その他

12月13日にジェンダー史学会の年次大会にて、シンポジウム「優生学ジェンダー −不妊手術(断種)を中心に−」が開催されます(すでに参加受付は終了しています)。

同シンポジウムは、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制されたとして国を訴えた裁判(旧優生保護法国賠訴訟)と、その判決が続くなかでの開催となります。直近の判決は前週の月曜日(11月30日)に大阪地方裁判所より出されました。判決要旨としては以下のようになります。

  1. 優生保護法が、憲法13条に違反していたと認定。
    →旧優生保護法が、性と生殖における個人の自由と、その意思決定をする自由、また当人の意思に反して身体への侵襲を受けない自由を侵してたと判断

  2. 優生保護法が、憲法14条に違反していたと認定。
    →旧優生保護法が、合理的理由なく障害者を差別し、法の下の平等を侵害していたと判断。これまでの東京地裁仙台地裁では、旧優生保護法が障害者を差別していたとする判断をしていなかった(むしろ、判断がなされていなかった方が驚き)。

  3. 国の立法不作為については、国家賠償法上の違法性が認められない。
    →また民法上の除斥期間20年を適用し、国の賠償責任は認められないと判断。

優生学はさまざまな領域にかかわるものであり、雑に論じることはむしろ優生学の「死への権力」―より正確に言えば規律化された「生を死へと投げ捨てる(廃棄する)権力」の作動に組するものだと私は思っています。

その一方で、この問題の途方もない大きさや広さ、深さに対して「どうせ自分には分からない」「どうせ私には関係ない」と思うこと、さらには「どうせ〇〇だし」(〇〇には社会的弱者とされるさまざまなカテゴリーが入る)と言及することも、また優生学の作動に組するものだと思われます。特に『アシュリー事件』の著者、児玉真美さんが「「どうせ」が共有されていくすべり坂」(児玉 2011:157)と表現するように、個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識の集合は、いつの間にか社会意識として醸成されていく可能性を伴います。

確かに私としても優生学について学ぶことの難しさは、学部での講義を受けて以来感じています、ですが、今でも命の選別や、条件付きの生存権に関する話を尽きないなか「どうせ」の共有に私は懸念をしています。難しいことではありますが、あきらめずに向き合っていきたいと思う次第です。

最後に、「個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識」―特に自己を卑下するような意識について少しだけ書きます。
先の記事でも書きましたが、ヤングは後期近代が微細な差異の境界を画定するとめどない実践を特徴としていると指摘しています(Young 2007=2008)。であるならば、私もこの社会からいつ追い出されるか―逆に言えばいつまでこちら側にとどまっていられるかは明らかではありません。自己存在への不安でいっぱいです。

では、そのような状況にいる個人はどのような実践をとるのでしょうか。
いくつか考えられると思いますが、そのひとつに高度な「自己のモニタリング」「自己管理」が挙げられると思います。社会学者のバウマンとメイは次のように言います(少し長いですがそのまま引用します)。

わたしたちは「適正」と見なされる状態に自分の身体をもっていくために、最善を尽くさなければならない。
この過程は、わたしたちがいかなる社会で生活しているか、自分の身体をしっくりいっているかどうかに左右される。わたしたちは自分の身体の管理を一つの課業タスクととらえる。それは、日々の配慮や注意を要する仕事である。身体の管理が自分の課業となると、望ましい体型の基準や、それに近づくためにしなければならない活動の基準が社会的に設けられる。そのような基準に従うことができなことは、「恥ずかしい」という思いをもたらし、そのような要求を満たすことができない人々は、日常的に「差別されている」という感情をもつ。(Bauman and May 2001=2016:214-5)


ここで重要なことは次の点にまとめられます。

  1.  適正とされる身体の基準に自身が合致することよりも、基準に近づくための自己管理と自己への配慮が要求されること
  2.  そのような社会的要求に応えられないことが「恥ずかしい」「差別」と認識されること
  3. (もう少し正確に言えば)自己管理ができていない自己が、自分自身のことを恥ずかしい存在だと捉えられてしまうこと

つまりは、身体や体型が例えば痩せているか、太っているかというよりも、ある身体に関する基準—ここでは「~べき」という規範に近いものだと思います―への接近に「努める」ことが良きものとされているのです。ここでの、身体への基準とはおそらく「痩せている」「色白」「艶のある髪」などが一般に挙げられると思います。

もう少しだけ話をすると、このようにある価値規準への行為の(ある種の)水路づけの作用をフーコーは「生‐権力」という概念を用いて説明します。例えば、それはギャンブル依存症患者はパチンコを「する」、「しない」ではなく「してはならない」の選択を迫られるような事態を指します。ここでの話に合わせるならば、「痩せる」「太る」というよりも「太ってはならない」という選択を「肥満症や生活習慣病の患者、その予備軍、そして現時点で健康だとされる人間に対して迫ってくる事態です*1*2

さて、自己管理ができないことは恥ずかしく、自己管理ができない自分は差別の対象であると感じてしまう事態は、社会における本人の存在位置に著しい影響を及ぼすものです。端的に言えば自分が排除の対象になりかねない状況です。排除の対象に自身がならないようにするために、身体に関する「自己管理」はより必要性を増してくるように思われます。なぜならば、自己管理をして適正な身体基準に近づくための努力をしている自己は恥ずかしくなく、差別されない存在だからです。

ただし、このことには直ちに「一応」と留保する必要はあります。それはなぜでしょうか。そもそも、適正な身体基準とは何でしょうか。自己管理のゴールはどこにあるのでしょうか。それっぽいものは思いついても、「これだ」と確実な正解で示せるものはなかなか見つからないのではないでしょうか。

ここで問題となるのは、自己の身体を管理することをタスクとして要求されつつも、その一方でタスクの終わりとなる基準が一向に示されない(分からない)という際限のなさです。しかもこの際限のない自己管理の動機の一部には、自分は恥ずかしい存在かもしれない、差別されて排除されるかもしれないという不安が含まれています。後期近代において、こちらとあちらを分ける境界は微細な差異によって曖昧化しています。「これが(自己管理の)ゴール=自分は恥ずかしくない存在だと思える基準だ」と思っていても、それは移ろいやすい差異の世界ではなかなか確証が得づらいものです。であるならば、自己管理を終えることも、休むことも難しくなります。むしろ、自己管理はどんどん加速していく可能性すらあります。

上野は相模原障害者殺傷事件の特集記事で「高齢者の自己差別」について次のように述べています。

差別のなかでもっとも深刻な差別は、自己差別ではないだろうか。他の誰かに差別される以前に、自分が自分を差別する。それが自尊感情を損ない、人を無力化し、貶める。(上野 2016)

ここでは、自身の「老い」ることが「社会のお荷物」という差別される存在になることと結びつき、それを全力で自己否定する様子を指摘しています。そして、相模原障害者殺傷事件の場合には、加害者のなかにあった「障害者性」と「社会のお荷物」の結びつきをを苛烈に否定するした結果が、他者=障害者への殺傷に向かったのではないかと論じている。
ただし、上野の議論では「老い」と「障害者性」がそのまま置き換えれてよいのかという疑問は残りますし、また先に挙げた「健康」を上野の指摘する「老い」と置き換えることも慎重にならないといけません。
しかし、少なくとも自己差別―自分は恥ずかしい存在かもしれない、差別をされる存在かもしれないという気持ちを常に内面化する状況は、自己管理を越えて自己への過剰な介入=自己検閲になること、そして結果的に自己と他者への排除に結び付くのではないかと筆者は考えています。

「個人が抱える自己や他者を卑下する「どうせ」という意識」について私見を書いてきましたが、このような意識に対して単に「自己肯定感を高めよう」というエールを送ることはむしろ本人の抱える不安を煽り、置かれる状況をさらに過酷なものにしかねません。そうではなく。自己管理を強いられる社会、自己管理を社会的自立の一形態として過度に称揚する社会のあり方に目を配っていくことが、筆者は大切かと思っています。

 

 

参考になりそうなもの(教育に関わるものを中心に)

〇岩下誠,2016,「イギリスの教育思想」眞壁宏幹編『西洋教育思想史』慶応大学出版会.
→特に4節「新教育運動の教育思想」にある「優生学教育心理学と新教育」「メリトクラシーと新教育」は面白い内容です。岩下さんも編著者である、『問いからはじまる教育史』(<有斐閣ストゥディア>有斐閣,2020)は今年出たばかりの教育史に関する最新の参考書です。

*1:ここでは身体に関する話ですが、例えばマインド(心の在り方)に関する議論もあります。詳しくはローズ(1989[1999,2006]=2016)や、堀之内(2016)を参照してください。

*2:身体への規範的なまなざしや介入については、特に「数字」「統計」と関連させて議論されることが多々あります。
例えば、石井は優生学研究の第一人者で日本民族衛生学会初代会長を務めた永井潜のテクスト分析を通して、永井が「生殖」概念をいかに語り、いかに記述していったかについて考察している(石井 2009a, 2009b)。そこでは、永井が「生殖」概念を恣意的に誰かを抑圧していくものとして運用していったのではなく、家計・偉人調査などの「あくまでも」科学的・客観的な新しい基準(知識)を駆使しながら結果的に個人の可能性をまさに方向づけていくものとして運用していったことが指摘されている。
他にも、磯野は人間の食べるという行為に数字(カロリーや塩分量など)が介在してくることで、食と食に関わる具体的な意味や文脈を有する世界からの切り離しがなされると指摘しています(磯野 2019)。そのことを「脱文脈化」とか数字が世界の彩を消すなどと磯野は表現しています。
石井と磯野の指摘に共通することは、客観的で価値中立的だとされる数字の存在です。磯野は数字には管理者の世界観が入り込むと指摘しています。石井は永井―磯野が言うところの管理者に当たる人間―が他者に対する抑圧の意図の有無にかかわらず、数字の利用によって人間の存在の仕方の可能性を方向づけたと指摘しています。両者の指摘の主眼は管理者の悪意の有無ではありません。人間や、人間の行為を数字で捉えることが可能になったなかで、いかにして数字が人間の内面に介入してくるかということに主眼が置かれているように思われます。言い換えれば人間の均一化や同質化を、人間自身が内面化してしまうような数字のネガティブな作用の「仕方」のことでもあります。

疑似科学/科学リテラシーと教育―「心」に焦点化する教育

秋頃に、「心」に焦点化する教育政策というテーマでゼミ報告する機会がありました。戦前の修身から戦後の道徳*1への連なりの中で、教育が子どもや大人(教員)の態度や関心といった心の在り方に介入しようとする試みがどのような意味をもつのか考察しました。


ここでは、報告作成時に参考にした文献やホームページが現場や日常生活でも役立ちそうなものだったので、ご紹介したいと思います。

 


以下では、そのときの報告内容について少しだけ書きます。

東京都は「「こころの東京革命」の推進」事業を10年間ほどおこなっていました。事業の概要については東京都の報道発表と、東京都財務局の事業評価表で確認してください*2

事業の理由と目的には次のように書かれています。

家庭や地域の教育力が低下したこと等に伴い、子供の規範意識や倫理観に欠ける問題行動等が深刻であった(東京都財務局 2018)

この手の政策でしばしば見るような、お馴染みの文章です。こうした青少年向けの教育政策ですが、その流れとしては

  1. 大人が理解できない子どもの出現
    →凶悪な非行少年、最新テクノロジーを駆使する子ども、増えたと見なされる障害児や体の弱い児童など

  2. 家庭や地域の教育力の低下
    →教育力がいわゆる「しつけ」に相当する

が雑な因果関係で結び付けられ始まることが往々にしてあります*3

そのなかで子ども個人は理解不能な存在に、子どもを教育する親や家族は教育力不足として、それぞれが改善の必要がある存在として見なされていきます。そして、それぞれに対して教育的介入―もちろん福祉の領域でも就労や自立といった用語で介入はあります―がなされていきます。

前者への介入の一つとして、今回筆者がゼミで報告した「心」の教育などが挙げられます*4。心の教育は、問題の帰責を当人のマインドに求める「心理主義化」とも関連しますし、個人の考え方や在り方の水平的な画一化(本田 2020)を助長するものでもあります*5。いずれにしても、理解不能な存在を理解可能な存在へと子ども個人を変えていくような教育政策の存在報告では指摘しました。

さらに以下では、ある他者を理解不能な存在として、介入対象とすることについてもう少しだけ話します。
例えば、本田は「水平的画一性」はある一定の層(大抵はマイノリティ)を排除すると指摘し、個人の在り方をa,b,c といった「水平的多様化」を創造していく必要があると述べています(本田 2020)。それは「個々人が、様々な独特なあり方で生きられる(本田 2020:235)ことの実現を意味します。

ですが、本田の議論ではマイノリティも含む個人の在り方がa,b,c と並ぶときに誰も排除されないのか、という点について論じられていません。つまりは、多様な個人の在り方が存在するとされる社会についての構想がここでは論じきられていないように思います。

筆者がゼミで報告した内容は、本田が指摘するような「水平的画一性」を実現するための教育政策のひとつです。それは理解不能な他者を理解可能な存在にするための方途です。a,b,cと並ぶ存在を、a,a,aとするような発想です。本田はこのa,a,a を問題であると指摘しているわけですが、では多様性が確保されたとするa,b,c の状況でaはbを(そんなにすんなりと)理解しすることができるのでしょうか。さらに言えば、aとbの共生はどのようにして実現できるのでしょうか*6

ここで犯罪学者のヤングの議論を引用してみたいと思います。
後期近代*7では「大人が理解できない子ども」が、全くの理解不能な存在者―異質者alienとして認識されるのではありません。むしろ理解可能性を前提にした理解できない存在として認識されます。言いかえれば、「不足つまりある特定の価値観に立脚したところからみて不利であることを強調する」(Young 2007=2008:20) ような他者理解です。

「ある特定の価値観に立脚」してとあるように、ヤングが指摘するような他者理解は、明確な境界線を画定してこちらとあちらに分断するような形で行われるわけではありません。他者を異物としてあからさまに排除するわけでもありません。むしろ、あちらとこちらを分ける分断線が文脈に応じて何回も引き直される点に特徴があります。引かれる線は大きな差異としてではなく、微細な―しかし幾重にも複雑に引かれる差異なのです。

後期近代では経済的な(再)分配が機能不全な状況ですし、また自己の存在を規定する文化的な承認も不確実な状況です*8。両者ともに、内実は混沌としています。ですから、いつ誰があちら側に立つかについての予測は立ちづらい状況です。そのなかで、立ち現れる微細な差異は、エスニシティジェンダー、階級といった多元的なものであり、また「雑種混交」なものであり、断片的で集合的で、強くもあり弱くもあり、固定的で移ろいやすくもあり、充足的で剥奪的なものでもあります*9。そのような特徴を備える差異は、あるときは<私>を包摂し、ある時には<私>を排除するような「移ろい」を社会にもたらします。

この点において、包摂と排除は一方向に単線的に発生するのではなく、複線的で同時多発的に起きているのです。言いかえれば、遠心力と求心力を、または吸収と排斥を同時に行う社会であるということです(Young 2007=2008)。

さて、筆者のゼミ報告やここでの記述内容は、教育の現場で対峙する他者(子ども)の理解の可能性や仕方のあり方を念頭に置いたものです。それは、ある個人を理解不能な存在として同定し、対象者の心を把握することで理解可能な存在として位置づけようとする試みです。つまりは、個人の存在を理解可能な範疇で掌握しようとするものでもあります。しかし、そのような試みには画一性に適うか否かで、ある一定の層を排除する可能性をもあります。

他方で、画一性を打破して個々人の差異を認める多様性を実現すれば、全てが解決するかというと必ずしもそうではありません。ヤングも指摘しているように、差異はA とB を区分するほど明確なものではありません。自己と他者の境界線はとても曖昧で、移ろいやすいことが後期近代の特徴です。したがって、必ずしもa,b,c の併存をもって排除の可能性—もちろん同時に包摂の可能性もあります―をゼロにすることはできません

では、どうするか。この点を考えなければなりません。いろいろな方途が考えられると思います。ヤングは「真の文化的多様性」Young 2007=2008:275)の可能性を挙げます。ヤングの「真の文化的多様性」も含め、ではどうするか問題については、もう少しまとまったら書きたいと思います。個人的には政治学者の齋藤純一さんが論じる生や公共性の「複数性」「多次元性」や、人類学者の保苅実さんの「ギャップごしのコミュニケーション」などが参考になりそうな気がしています(あくまで予想です)。

 

 

参考文献***************

本田由紀,2020,『教育は何を評価してきたのか』<岩波新書1829>岩波書店
本田由紀伊藤公雄編,2017,『国家がなぜ家族に干渉するのか――法案・政策の背後にあるもの』<青弓社ライブラリー89>青弓社
木村涼子,2017,『家庭教育は誰のもの?――家庭教育支援法はなぜ問題か』<岩波ブックレット965>岩波書店
酒井朗,1999,「「指導の文化」と教育改革のゆくえ――日本の教師の役割意識に関する比較文化論的考察」油布佐和子編『教師の現在・教職の未来――あすの教師像を模索する』教育出版,115-137.
――――,2014,『教育臨床社会学の可能性』勁草書房
Young, Jock., 2007,The vertigo of late modernity, London: Sage Publications.木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳,2008[2019],『後期近代の眩暈:排除から過剰包摂へ』青土社.)

*1:2018-9年にかけて小中学校では教科に格上げされました。

*2:URL先は2020年12月6日現在、確認しました

*3:もちろん、このような背景には問題の責任と対応を子どもや家庭に求めることで公的な教育支出を抑制するといった新自由主義的な発想もあります。

*4:後者への介入については本田・伊藤(2017)や木村(2017)を参照してください。

*5:また教師の子どもへの関与の仕方にカウンセラー的な要素が含まれること、またその要素が日本の教師文化である「指導の文化」と親和的なことも指摘されます(例えば酒井 2000,2014)。

*6:そもそも同書での本田の仕事は他者との共生の在り方を論じることではないと思うので、筆者のような指摘は酷であると思いますが...。

*7:ここでは現代とほぼ同じ意味として捉えてください。

*8:存在論的不安とか、アイデンティティ危機といった事態です。社会や他者からの承認が不安定だからこそ、自己と他者を区別するための本質性が強調されるわけですが、その例にヤングは「マスキュリニティ」を挙げています。この点は、教育社会学者の木村涼子さんや男性学の多賀太さんが1990年代に既に指摘していたことでもあります。

*9:このような差異を有するコミュニティの特徴についてはヤング(2007=2008:365-8)を参照してください。

【メモ20201002】レポートを書くときに参考になりそうな資料一覧[随時更新]

花王株式会社生活者研究センター(2017)『生活者定点調査にみる家族の10年―家庭のなかの「個」と、家族の距離感の変化』
(2020年10月1日取得,https://www.kao.co.jp/content/dam/sites/kao/www-kao-co-jp/lifei/report/pdf/39.pdf .)

→他にも、花王が独自に実施したさまざまな研究レポートが掲載されており興味深い( https://www.kao.co.jp/lifei/ )。

 

博報堂生活総合研究所『生活定点1992‐2018』
博報堂生活総合研究所ホームページ,2020年10月1日取得,https://seikatsusoken.jp/teiten/ .)

 

統計数理研究所『日本人の国民性調査』
統計数理研究所ホームページ,2020年10月1日取得,https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/index.html .)

→1953年より5年毎に調査。最近はホームページの更新もなく、2018年度の調査結果(そもそも調査が実施されたのかも不明)が分からない。

 

〇貧困統計ホームページ

(貧困統計ホームページ,2020年9月25日取得,https://www.hinkonstat.net/ .)

→このホームページは、子どもの貧困研究を専門になさっている阿部彩さんが文部科学研究費助成金事業「「貧困学」のフロンティアを構築する研究(平成29‐32年度)」の研究成果として作成・更新しているものになります。日本国内における貧困の実態や貧困・社会的排除の研究動向について知るにはとてもよいサイトです。

 

〇子どもの貧困調査研究コンソーシアム

(子どもの貧困調査研究コンソーシアムホームページ,2020年9月25日取得,https://kodomo-hinkon-research.org/overview.)

 

 

野村総合研究所(2018)『生活者1万人アンケート(8回目)にみる日本人の価値観・消費行動の変化』

野村総合研究所ホームページ,2020年6月3日取得,  https://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/knowledge/report/cc/mediaforum/2018/forum272.pdf?la=ja-JP&hash=11CCF832BC6EC6481392389F6BBD74B4D12C51A2.)

 

東京大学大学院教育学研究科・教育学部 中村高康 研究室(2013)『教育と仕事に関する全国調査』

(中村高康研究室ホームページ,2020年5月15日取得,http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~tknaka/survey .)

 

 

期待。

ちょっと、思ったことを書きました。

 

【追記】

先日、入構が出来なくなった学校へ、久方ぶりに行った。
3月31日に慌てて荷物をまとめ、図書館で本を借りたとき以来のことである。
開いていない正門、
誰も歩かなくなった道に生える苔、
入学おめでとうと、学生のいない食堂の扉に飾られる桜、
利用者のいない地下鉄の駅に置かれるアルコール消毒液、
そこに時間は流れていない。
時間がその場に充満し、
充満した時間が、ただその場に横たわっているだけ。
移ろいという、一方向の性質は、そこでは道標を見失って、どこへ向かおうか迷子になっているみたい。
過去も、未来も、現在も混在した空気のようなものがそこには漂っているだけ。

帰りの地下鉄で、3年前の哲学の講義で聴いたアウグスティヌスの話を
ふと思い出す。
講義のメモが入ったタブレットを開く。
そこには、
「現在というものは、現在でなくなることによって現在といえる」
「なぜなら、もし現在が、現在のままであれば、それは一切の変化を排除することになり、永遠になってしまうだろう。永遠になってしまえば、時間は消滅する」
「だから、現在が現在であるためには、現在が現在でなくなるのでなければならない」
と書いてある。

現在という時間は、まず存在して、そして存在しなくなるという移ろいを本質としているのであって、
過去も未来も、根本には現在に依拠しているという。
「存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在において存在する」
「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在という、三つの現在が存在する」

あぁ、いま心身を通じて感じるこの時間、わたしの存在のどことない揺らぎ。
しかし、不思議と、そこに無力感も悲しさもない。
淡々と目の前にある事実を受け入れるだけだ。
過ぎ去っても、未だ来なくても、どこまでもある今という、現在をだ。
無間に現在だ。

何か月も置きっぱなしになっていた、定期購読雑誌。
購買で購入。そして、またしばらく学校には入れないからと、定期購読を解約。
距離をとるので、わたしと店員との会話に余白はない。
無駄のないやりとり、無駄は許されない。
購入したひとつ、岩波書店『図書』の8月号に小池昌代さんの文章が掲載されている―「抱擁」。
そこで吉田一穂(いっすい)の詩を引用して、次のように小池さんは書いている。

 むかし、吉田一穂という詩人が、「母」という詩の冒頭で、「あゝ麗はしい距離(ディスタンス)/つねに遠のいてゆく風景」と書いた。すべて詩に連想が飛ぶのは、悪癖だが、ウイルス対策で、ヒトとの距離を開ける必要があると聞いたとき、思いだしたのは、あの一行だった。
 母もふるさとも、幼い頃は、自分と一体化したものだった。長じるにつれ、故郷を出、母のもとを離れ一人で立つ。そこに初めて距離が生まれる。思慕や郷愁、懐かしさや憎しみ。あら ゆる感情も、そのなかに湧いてくる。距離とはすなわち、場所や人を対象化するまでの、時間の膨らみを言うのだろう。
 ウイルス対策における、ヒトとヒトとの距離に、そういう情緒はない。最初から、開けることが要請されている物理的・社会的な距離だ。「距離」を詠嘆調で歌ったあの一行に、わたし は前世ほどに遠く無力なものに感じた。(小池 2020:2-3)

情緒。
仮に、わたしがいま浸っている現在という時間から、
抜け出すとしたら、
おそらく情緒が必要なんだろう。
アウグスティヌスが言った、「心の働き」とも関連するもの。
2メートルという、定量的な距離でも
2時間という、定量的な滞在時間でも、
複数人、という定量的な集合でも、
20代、という定量的な世代でもない、
心身から湧いてくる感情、
測ることのできない変質的な移ろいが、
いまのわたしには必要なんだろう。

でも。
わたしは、それを必要としているのか。
むしろ。
「情緒が押しつぶされ、偽善の入り込む余地もない距離には、むしろ即物的な清々しさがある。」(小池 ibid)
そうか、空間に横たわる、流れを失ったあの時間に、なんの焦りも感じなかったのは、
無機質さえ感じたからだ。

カレンダーで8月になったので、
思いだして、ここに来たけれども、
いまのわたしに、何が書けるか。
結局書いたものは、
楽観的にも悲観的にもとれない、喜びとも悲しみともとれない
つかみどころのない、
いまの自分の心身の身構え。
どこかあきらめていて、醒めている。
あれ、意外に平気なのか。
あ、でも、やっぱり。

定量的な1人の私と、
定量的な1人のあなたが
定量的な2メートルを飛び越える、その日まで。
測られる距離にない未だ来ないもの―未来に、
わたしは期待している、
「抱擁できる日がきっとやってくる」と。